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歴史講演会「二条城から二条離宮への軌跡」を聞いてきました

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今日、中京区役所で開催された歴史講演会「二条城から二条離宮への軌跡」の抽選に当たって参加できたので、教わったことを簡単にレポートしたいと思います。

登壇者は3名、二条城の歴史を時系列に応じて話されました。

  • 今江秀史さん(元離宮二条城事務所 文化財保護技師)【築城から幕末まで】
  • 降矢淳子さん(元離宮二条城事務所 学芸員)【離宮時代】
  • 秋元せきさん(京都市歴史資料館 歴史調査員)【京都市への下賜以降】

スライドは撮れるだけ撮ったので、それを見るだけでもいいかもしれません。
ぼくが気になった点をメモとして共有します。

目次

将軍が訪れなかった時期の二条城

二条城は城というより屋敷だった

将軍宣下は伏見城でおこなわれているように、二条城は政治の場として使われていない。

東大手門を入ったところの広場は何も意味がないように見えるけど、唐門から二の丸御殿へ入るため待機する場所として必要だったそうです。
(あのエリアもいちおう「庭」扱い)

講演では触れられてませんでしたが、このへんは聚楽第も同じような位置づけじゃないのかなと思いました。

将軍不在期の二条城は大番(おおばん)の拠点として使われていた

ここのポイントは「二条城は江戸時代もずっと使われていた」という点です。
一般に(ぼくもそう思ってましたが)家光の上洛以降、家持が上洛するまでの約200年は二条城が使われてないと思われてきたけれど、じっさいはそうではないと。
(もちろん城としては使われてないんだけど、そもそも屋敷であって城ではなかったという前提)

大番という戦闘集団の居所として使われていたそうです。
この大番というのは世襲制で、江戸(2年)→大坂(1年)→江戸(2年)→京都(1年)と定期的に江戸と上方を行ったり来たりしながら警護の仕事をしていたそうです。
ただ秘密集団のため詳しいことまではわからないけど、200人くらいが二条城に詰めていました。この「二条在番」の話はマンガの取材でも聞いたなあ。

彼ら大番が食事をするため、また給料として与えるため、そして緊急時のための備蓄用の米が蓄えられていて、だから二条城には米倉がたくさんあると。

幕末、徳川家茂・徳川慶喜のときにはじめて二条城が政治の場として使われるようになった

来客のための控室が作られたり、江戸から同行してきた老中などが仕事ができるよう、小規模ながら江戸城と同じ使い方ができるように増築がおこなわれました。

なぜ「まるで使われていなかった」という誤解が生まれたのか

二条城のまわりには緩衝地としての空き地があり、そこに門があったので、御用商人など以外は簡単に近づけなかった。
現代でも霞が関の中がよくわからないのと同じで、エリア内の様子は一般人にはわからないため記録に残っていない。
おそらくそういう経緯で誤解が生まれたのだろうということでした。

二条城は江戸初期からずっと使い続けられてきた、そのことが二条城の真の価値であるというお話はとても印象的でした。
(同じように江戸時代から使われているお城は全国的に見ても江戸城くらい)

いま、二条離宮を体感する

離宮=皇室の別邸。

本丸御殿の見どころ。

  • 公家の住宅が、これほどの規模で残っていること(建物自体がスゴイ!)
  • 皇太子の宿泊所となり、現存していること(使われ方の歴史がスゴイ!)

二の丸御殿の見どころ。

  • 白書院の菊紋
  • 屋根の破風に取り付けられた菊紋

苑地(えんち)の見どころ。

  • 唐門前から本丸に続く馬車道

二条城が京都府庁として使われていたことは知っていましたが、陸軍省と京都府の貸借契約書があるのは知りませんでした。

明治19年の修理は見た目の修理ではなく、朽ちていた床下の修理が中心。
白書院は菊紋に付け替えられた。

白書院の帳台構えの飾り金具も菊紋に。なぜか現在は外されていて葵紋に戻っているそうです。
(以下は離宮時代の基調な写真)

天井の辻金物や引手金具なども菊紋に。

一の間の天井は一部菊紋が落ちて葵紋が見えている。
(観覧通路からは位置的に見えないらしい)

桂宮御殿の移築

桂宮御殿はふたつあった。今出川御殿と石薬師御殿。
このうち今出川御殿が移築された。桂宮家の当主によってどちらをメインに使うかはちがっていたらしいが、幕末時は今出川御殿が使われていた。
ただしすべての建物ではなく、御常御殿や台所など主な建物のみ4つだけ移築された。
御常御殿は移築時に方角を変えているので、そのままではない。

明治20年に鉄道が整備され、天皇や皇太子が汽車で京都まで来ると、馬車で二条城まで来た

大正天皇の皇太子時代のルート。
東大手門から唐門前を直進して、南中仕切門を抜けて本丸西橋から本丸へ入って御殿に向かいます。

南門は大正天皇の即位の際の饗宴(大正大礼)に作られた門なので、東大手門から入るルートなんですね。
本丸西橋は馬車が通れるように架替えられたそうです。

二条離宮は大正天皇、昭和天皇が皇太子時代に10回以上宿泊しているそうです。
同じく城が離宮になった名古屋離宮は何回くらい泊まってるんでしょうね。

京都市への下賜

二条離宮の廃止、京都市への下賜

京都市長・市村慶三が東京に呼び出されて、「元二条離宮土地建物」を京都市に下賜することが伝えられました。
二条城の東大手門の前にある「史蹟 舊二條離宮 二條城」と書かれた石柱の文字は市村元市長が書いたものだそうです。

また市村元市長が元皇宮警察長でもあったので離宮が下賜されたという説もあるとか。

戦時には1945年の東京大空襲を機に、美術品の疎開が実施され、二条城にある国宝・重要文化財の美術品も京都市内の大覚寺や臨川寺、滋賀県の高島郡三谷村国民学校分教場などに分散疎開されたようです。

まとめ

今日の講演会の音源と配布資料です。

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ひとり30分、約1時間藩の講演会でしたが、400年以上におよぶ二条城のおおまかな歴史を時系列で学べたと思います。
とくに明治以降の話は断片的にしか知らないので、本丸西橋の架替えとか、美術品の疎開とか、今日はじめて知ったこともありました。

なにより江戸時代も二条城はふつうに使われていた、というのが最大の驚きでした。
前に二条城ガイドツアーをするためにいろいろ勉強した際、家茂上洛のために整備するために向かった役人が「狐狸が住む」と書いてたと学んだ気がするので、そのへんの整合性を今後チェックしていきたいと思いました。

城ではなく屋敷として使われたという点では聚楽第との共通点があり、江戸時代から現在まで使われ続けているという点では江戸城と共通点があり、離宮として使われた過去を持つという点では名古屋城との共通点がある――二条城だけを見るのではなく、いろんなお城と比較することでその特徴がより際立つので、全国のお城を訪問している攻城団の団員にこそ二条城をしっかり見てもらいたいし、来年こそガイドツアーやらなきゃなと帰り道に考えてました。

あ、ちなみにこの講演会は現在、京都市歴史資料館で開催されている特別展「二条離宮 -元離宮二条城 本丸御殿公開記念-」にあわせておこなわれました。
菊紋とか今回のお話で出てきた関連の展示もかなりあるそうですので、ぼくも近いうちに行くつもりです。

   
この記事を書いた団員

こうの

攻城団のこうの団長です。

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