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こんにちは、黒まめです。
今年よかった城・第2弾として、安宅(あたぎ)勝山城を紹介します。
安宅勝山城は、水軍領主・安宅氏の里「安宅荘(あたぎのしょう)」を見下ろす標高212mの所にある安宅氏のシンボル的な城跡です。
国史跡「安宅氏の城館跡」の中にあって、まだ史跡指定は受けていませんが、その威圧的ともいえる高所の城は、安宅氏の城の中でも異彩を放っています。
安宅本城を守るための支城の1つとして築かれた城ですが、『安宅一乱記』によると、大永6年(1526年)に勃発した跡目相続による内乱の際、安宅安次丸が立て籠もったと伝えられています。
また、白浜町には、2つの城が合戦をして勝った方を「勝山城」負けた方を「負山城」と呼んだという伝承も残っています。全国に「勝山城」は数多く残っていて、こういった伝承も「城あるある」なのかなと思います。
登るのは、ちょっと頑張って
タイトル下の案内板は、白浜町塩野の日生神社にあります、そこから少し西に行った所に登城口があります。しばらくは、石がゴロゴロした急坂を登って行きます。
迷いやすい所には、白浜町教育委員会設置の結構新しい標識があります。上の写真は登り切った尾根にある標識です。
ワクワクドキドキ、3重堀切
しばらく尾根を進むと、最初の見所3重堀切があります。少し浅くなっていますが、当時はもっと深かったでしょう。
さらに、堀切の両側は竪堀となっていて、回り込むことなどできません。今の私たちにとってはワクドキポイントですが、攻め上る兵たちにとっては、違う意味でドキドキ、そして1つ乗り越えるごとに気力が萎えていく恐怖のポイントです。
堀切を乗り越えても……
ここは、主郭の下にある帯曲輪の1つで、右側の土塁によって攻撃側からは見えない「武者隠し」となっています。
そして、ここは先ほどの3重堀切を乗り越えてきた敵を狙える絶好のポイントとなっています。
主郭虎口
「武者隠し」と反対方向にある帯曲輪からは、この虎口を通って主郭のすぐ南側の広い曲輪に入ることができます。右手前の石と左の木に半分隠れている石が門の礎石だと思われます。
土塁に囲まれた曲輪には、あるものが……
最初に入る南側の曲輪は、主郭と接している方以外の三方を土塁で囲み、安宅氏お得意の石積みでの土留めを行っています。
この写真の正面に見えている土嚢のあるあたりの石積みは、土塁に登るための雁木坂と考えられています。
いよいよ主郭へ
土塁で囲まれた主郭には、平たい石が散乱しています。
礎石建物が建っていたのでしょうか。遺物が発見されていないので、あったとしても居住するための建物ではなさそうです。
主郭は高所にあるだけあって眺めは素晴らしいです。
北方向には、蛇行して流れる日置川と安宅荘が一望できます。
中央付近に見えている平地(白い集合住宅の手前)が安宅氏の本拠地「安宅本城」のあった場所です。
そして、その奥に見える尾根の突端が、本城の詰城「日置八幡山城」です。本城と日置川をはさんだ対岸には「安宅大野城」が見えています。
水軍領主にとっては、この西側の海の眺めもとても重要でした。
普段は、本城近くの日置川河口付近に自軍の船を係留し、船影が見えると一斉に出撃していったと想像できます。
圧巻の5重堀切
東へ向かう尾根には、岩盤を削った後の石を積んで土留めを施した5重の堀切が待ち受けています。
安宅勝山城では、「ここを絶対に見るべし!」というぐらいの見所です。
重機も何もない時代に、岩盤を削り、石を積むといった作業はとても大変だったことだと思います。それをやらせることができる力を、自分たちは持っているということを見せつけるための城でもあったようです。
まとめ
安宅氏の力を見せつける安宅氏のシンボルという意味でも、安宅勝山城は、城を戦艦に例えたときの旗艦(フラッグシップ)ともいえる城だったということがわかりました。
少し前までは、道もなく攻城するのがためらわれるような難度の高い城でしたが、「安宅氏の城館跡」が国史跡となり、史跡指定されていない「安宅勝山城」にも案内板、標識が設置されるなど、整備の手が入ってきて、攻城しやすくなっています。
「一兵たりとも入れないぞ」という意思すら感じさせる多重堀切など、見てほしいポイントも多くあります。
そして、5重堀切を越えてさらに進むと、曲輪のふちを石積みで補強し、武器である川原石を集積、さらに畝状空堀群にも出会える「古武乃森城」に至ります。
「古武乃森城」とセット攻城するなら、1日がかりでお弁当を持って出かけましょう。攻城後は、日本最古とも言われている、白浜温泉で疲れをいやすのもよろしいかと……。