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京都国立博物館で開催された土曜講座「豊臣秀次一族の追善と瑞泉寺」に参加してきました

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今日は京都国立博物館で開催中の豊臣秀次公430回忌特集展示「豊臣秀次と瑞泉寺」を見てきました。あわせて土曜講座「豊臣秀次一族の追善と瑞泉寺」を拝聴してきたので資料とメモを共有します。

豊臣秀次公430回忌特集展示「豊臣秀次と瑞泉寺」

特別展ではないので展示自体は1Fの3部屋を使った小規模なものです。
ただWikipediaなどにもアップされている、よく見る豊臣秀次の肖像画「豊臣秀次および眷属像」や、いわゆる秀次事件について描かれた絵巻物「秀次公縁起」などが展示されています。

さらに講座でも紹介されましたが、瑞泉寺裂(ずいせんじぎれ)と呼ばれる、秀次事件に連座して処刑された秀次の子女妻妾らの辞世和歌も多数展示されていました。
8月4日(日)までなので気になる方はお早めに。

土曜講座「豊臣秀次一族の追善と瑞泉寺」

講師は山川曉先生(関西学院大学文学部 教授)でした。以前は京都国立博物館で働いてらっしゃったそうです。
レジュメをアップしますので、講演で伺った要点(とぼくが思ってメモしたところ)を共有していきます。

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豊臣秀次の生涯と「秀次事件」

まず最初は豊臣秀次の生涯について。
若くして亡くなっているので年表にしてもそれほど多くの記録が残っているわけではありませんが、幼少期は宮部継潤や三好康長(笑岩)に人質として出されています。
山川先生は人質というと女性ばかりのイメージがあるけれど、この時代は子どももこうした交渉の道具として人質に使われたとおっしゃっていました。まあ信長や毛利や北条のように自分の子どもを人質としつつ、その家を乗っ取るケースもありますけどね。

ああ、そうかと思ったのが小牧・長久手の戦いにおける「三河中入り」の件です。
家康軍に対して壊滅的な大敗を喫したわけですが、このとき戦死した池田恒興は秀次にとって岳父(正室の父)なんですね。同じく戦死した森長可の正室は池田せんなので、長可と秀次は義兄弟にあたります。
まだこの時点の秀次は秀吉の後継候補のひとりにすぎないのですが、チーム池田として秀次を支えて出世しようという狙いがあったのかも。
大坂城築城の際、秀次は兵庫城に入っていますが、もともとあの城は恒興が築いた城ですしね。

その後、秀次は紀州攻めで功を立てて、正式に後継者として認められていきます。
1590年(天正18年)小田原攻めのあとにはそれまでの近江八幡に加えて、尾張や伊勢などが加増され、100万石の大大名に。
その翌年、鶴松の死去に伴い、秀吉の養嗣子となったと考えられ(この時期は諸説ある)、秀吉から関白職を譲られると聚楽第に移ります。

しかし2年後の1583年(文禄2年)に秀頼が生まれると状況が悪化し、1595年(文禄4年)に謀反の嫌疑がかけられ、高野山で自害しています。
妻妾や子どもら39名も三条河原にて処刑され(人数は諸説あるとか)、遺体を埋めた穴の上に高野山から持ち帰った秀次の首を収めた石櫃(せきひつ)が置かれ、塚が造られます。この塚を「畜生塚」や「秀次悪逆塚」と呼んだそうで、豊臣政権がかなり悪辣なネガティブキャンペーンを展開したことが想像できます。
この塚は洛中洛外図屏風にも描かれているそうで、年代比定に使われるとか(塚があれば文禄4年8月以降とわかるので)。

秀次一族の処刑から少し時代が進んだ1611年(慶長16年)―といっても16年ほどですが―に京の豪商・角倉了以が高瀬川を開削する際に秀次の塚を発見し、その供養のために建立したのが瑞泉寺です。ちなみに「瑞泉」は秀次の法名です。
瑞泉寺は現在、鴨川の西側、三条大橋のすぐそばにあるのですが、なぜ処刑場が鴨川の外(東側)ではなかったのかが気になりました。質疑応答の時間がなかったので家に帰って調べてみると、どうやら当時はいま瑞泉寺がある場所は鴨川の中洲だったようです。瑞泉の本堂から三条大橋あたりに処刑場があったとか。

三条大橋がかけられたのは秀次事件の5年前で、往来の多い場所での公開処刑は明らかに「見せしめ」なのでしょう。
(当時は娯楽が少なかったので処刑も民衆にとってはエンターテイメントだったようです)

秀次は文化人で、教養もあったそうで、高野山に向かう途中に読んだ歌が残されています。
今回の展示では処刑された秀次の側室らの辞世和歌が多数展示されていましたが、やはり秀次の側室になるためには高い教養が求められたのでしょうね。

一五〇年御忌の追善のかたち 肖像画・辞世和歌

一族がことごとく処刑され、聚楽第が破却されたように、秀吉は秀次の痕跡を消し去ろうとしたので、秀次ゆかりの品はありません。
今回展示されているものも秀次自身の持ち物ではなく、瑞泉寺にのちに寄進されたものです。ではいつ、誰が寄進したのか、というのが続いての話でした。

おそらく秀次の死去から150年目におこなわれた「一五〇年御忌」にあわせて、冒頭に紹介した秀次の肖像画がある三幅の掛け軸などが寄進されたのだろうとのことでした。
瑞泉寺にいろんなものが寄進されたり建立・復興をした記録(目録)が残っており、たとえば掛け軸も1744年(延享元年)に「次公幷御簾中御影三幅」と記載されています。

この掛け軸(秀次の肖像画)を描いたのは狩野正楽永隆ということは記録からわかっているのですが、この人物がよくわからないそうです。
どうやら永隆の父、奈須永翁は上田藩の御用絵師のようですが、なぜ(狩野派とはいえ)そのような人物に瑞泉寺が、秀次の絵を描かせたのかは気になりますね。

また寄進の記録には瑞泉寺裂の辞世和歌が出てこないそうです。
そもそもこの辞世和歌は処刑された妻妾たち本人の自筆で、表具として使われている着物も本人が着用していたものと伝わっているのですが、それはないだろうとのことでした。
ただしほんとうにすべて筆跡が異なるので、山川先生は想像だけどと前置きしたうえで、一五〇年御忌の際に縁者に書いてもらったか、檀家さんが分担して書いたかではないかとおっしゃってました。

レジュメにあるとおり、妻妾たちが残した辞世和歌は「聚楽物語」や「秀次物語」のほか「関白物語」「太閤さま軍記のうち」「(甫庵)太閤記」「猪熊文書」などに書かれているのですが、瑞泉寺に残るものと一致するのは「聚楽物語」のみで、つまり「聚楽物語」を見て書いたと考えるのが自然だろうとのことでした。
「聚楽物語」は寛永年間(1624年〜1644年)に出版されているので、本人たちが自筆でというのは成立しません。こういう謎解きのような検証はおもしろいですね。

ちなみに辞世和歌にある「1番」というのは処刑順のことです。
1番は「一の台(いちのだい)」と呼ばれた菊亭晴季の娘で、正室の池田恒興の娘(若政所)の死去後は継室となっていたようです。Wikipedia情報ですが、一の台とは「一の御台所」の意味で、恒興の娘が存命中も正室扱いだったともありました。
一の台は絶世の美女だったらしく、秀吉が側室になることを求めたもののそれを拒んで秀次に嫁いだため秀次事件が起きたという説(まあ俗説でしょう)もあります。

瑞泉寺裂とキモノ

最後に瑞泉寺裂の紹介がありました。
正式名称は「瑞泉寺伝来表具裂」と言います。京都市指定有形文化財に指定されていますが、あくまでも表具部分であり、辞世和歌は対象ではないそうです。

ネットで検索したら最上義光歴史館のブログがヒットしたのですが、そうか駒姫(於伊萬(おいま)の方 )は最上義光の娘ですからね。彼女も処刑されて、辞世和歌が残っています。

辞世和歌が後世の創作であるように、瑞泉寺裂として使われている着物も本人着用のものではなく、慶長年間から江戸前期あたりのものだろうとのことでした。
「辻が花」とか専門用語を用いながら説明いただいたのですが(絞り染めの技法らしいです)、この部分は知識がなさすぎてよくわからなかったので割愛させてください。

瑞泉寺のサイトに今回紹介したものが寺宝として紹介されてます。

おまけ

今月末(7月29日)の攻城団テレビで少し感想などを話そうと思います。
あわせてプレゼント用に図録を買ってきたので、視聴者プレゼントとして提供したいと思います。ぜひご覧ください!

   
この記事を書いた団員

こうの

攻城団のこうの団長です。

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