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~根来衆・雑賀衆はどう戦ったのか~
みなさんこんにちは、黒まめです。
ひょんなことから、大阪府貝塚市に、天下統一を推し進める秀吉に抗った城があり、紀州の根来衆を中心とした集団の支配下にあったことを知りました。
一時は70万石を超える寺領を有し、鉄砲隊を中心とした強力な軍事力を背景に、和泉国まで勢力を伸ばした根来衆について、もっと知りたいと思い調べてみました。
根来衆と、このとき協力関係にあった雑賀衆は、どのように戦い、どのように終焉を迎えたのか、貝塚にあった近木川(こぎがわ)防衛ラインの戦いを中心に辿っていきたいと思います。
根来衆・雑賀衆はどのような集団だったのか
ルイス・フロイスの『日本史』には、
(紀州には)一種の宗教団体が4つ5つあり、そのおのおのが共和国的存在で昔から同国ではつねにその信仰が盛んに行われてきた
とある。根来衆も雑賀衆も「紀州惣国一揆」と表現された自治的組織で、フロイスはその一つ一つを「共和国」に例えました。武士による百姓支配を望んだ秀吉の考えとは真逆の横のつながりを重視した集まりであり、秀吉とは到底相容れないものであったことと想像できます。
根来衆は、天文12年(1543年)にはすでに、松浦肥前守守(まつら ひぜんのかみ まもる)によって築城された「野田山城」を支配下に置き、「根福寺(こんぷくじ)城」と改称したと言われているので、紀州攻めの50年近く前から和泉に勢力を広げていたようです。
また、貝塚にある浄土真宗の「願泉寺(がんせんじ)」は、天正11年(1583年)、本願寺第11代顕如(けんにょ)らが紀州鷺ノ森から移住し、浄土真宗(一向宗)の本山「本願寺」として機能していました。
そこに、一向宗門徒である雑賀衆がやってきて、根来衆と協力関係になるのは自然な流れなのではないかと想像します。
近木川防衛ライン
根来衆を中心とする勢力は、近木川沿いの土豪たちが築いた中世城館を砦のような城とし、土地の土豪、農民たちと共に秀吉に対抗するための防衛ラインを築きました。
- 千石堀城
- 高井城
- 積善寺城
- 畠中城
- 窪田城
- 澤城
江戸時代に作成された「根来出城配置図(岸和田市教育委員会所蔵)」には、上記の6城が描かれています。
岸和田城攻防戦
秀吉は、中村一氏に3万石を与え、岸和田城主として根来衆・雑賀衆に備えさせました。
徳川家康らと連携した根来衆・雑賀衆は、秀吉が「小牧・長久手」に出陣した留守を突き、天正12年(1584年)3月22日、岸和田城を2万の兵で攻めましたが、8千の兵を指揮する中村一氏の必死の防戦により、押し返されてしまいました。
このときの戦いが「蛸地蔵伝説」として語り継がれています。
援軍として現れた播磨勢を明石の蛸になぞらえたのではないか、という人もいます。私も援軍を蛸として表し、さらに秀吉側を善として印象付けるために、「大蛸に乗った僧=地蔵が城を救った」という伝説を作り上げたのではないかと想像します。
秀吉軍の怒涛の攻撃を受ける近木川防衛ライン
岸和田攻防戦の翌年、天正13年(1585年)3月21日から22日にかけて、近木川防衛ラインの城に秀吉軍が襲い掛かってきました。
千石堀城
近木川防衛ラインの一番の堅城である「千石堀城」は、戦略上一番に落とさなければならないと秀吉は考えたのでしょう。
羽柴秀次を大将に、堀秀政、筒井定次、長谷川秀一などの軍約3万を、大谷左太仁法印を城主に、根来衆千数百人が迎え撃ちました。城内から撃つ鉄砲により、秀次軍に多大なる損害を与えましたが、筒井軍の射掛けた火矢が火薬庫にあたり爆発炎上し、落城しました。
高井城
行左京(ゆき さきょう)熊取大納言を大将に農民約200人が立て籠もりましたが、福島正則の軍勢に攻められ落城しました。
千石堀城とは近木川をはさんで対峙する位置にあったので、千石堀城落城のときの爆発音や炎がよく見えたことと思います。立て籠もった人たちは戦意を大きく失ったのではないでしょうか。遺構はありませんが、道との高低差を見ると、ここが城であったことを感じることができます。
積善寺城
出原右京(いずはら うきょう)を大将に約9500人が立て籠もったと伝えられています。
秀吉軍は、地蔵堂丸山古墳に陣を置き、積善寺城に対峙したと伝わります。細川忠興、大谷吉継、蒲生賦秀、池田輝政らに攻められましたが、3重の堀に囲まれた堅城・積善寺城は持ちこたえ、最後は「扱い(=仲介)」により落城しました。
畠中城
神前要人宗行(こうざき かなめんど むねゆき)が城主、その妹婿是光を大将に約1500人が立て籠もりました。
中村一氏に攻められますが、最後は千石堀城に上がる火の手を見て自ら城に火をかけ退却したと伝わります。
「百姓ノ持タル城」とされる「畠中城」ですが、ここでいう百姓とは、農民を指すのではなく、兵農未分離の土豪を指すものと思われます。
神前氏の先祖は、鎌倉時代に斬首される直前の源行家(みなもと の ゆきいえ)を屋敷にかくまったと言われています。それ以前から、この土地の有力者であったのだろうと思います。
江戸時代には、神前要人宗行の子孫が「要人」から一字をとって要という名字を名乗り、岸和田藩の七人庄屋の一人に列せられています。
写真は今も残る「要家屋敷(非公開)」です。「畠中城」の詳細はよくわかりませんが、おそらく「要家屋敷」周辺に本丸があったのだろうと思います。
窪田城
「根来出城配置図」では櫓が1つと北側の濠が描かれています。宝蔵寺のあたりから濠跡が発掘されているので、そこが北側の濠にあたるのだと思います。
紀州攻めの兵火を受けたと伝わりますが、詳細はわかりません。「窪田児童遊園(窪田薬師公園)」の薬師堂のあたりが本丸だといわれています。道よりもかなり高くなっていて、城であったことがうかがえる場所となっています。道を隔てた向かいに窪田町の地車(だんじり)庫があります。
宝蔵寺の周辺も歩きましたが、埋め戻されているのか、それらしきものは見つかりませんでした。
澤城
最も海側に位置する澤城は、「浜ノ城」とも呼ばれました。
高山右近、中川秀政らに攻められましたが、田中加足を大将に「雑賀衆ノ持タル城」として雑賀衆を中心に約6000人が立て籠もって抗戦しました。最後は「扱い(=仲介)」により落城しました。
根来衆・雑賀衆の終焉
これらの出城を落とした秀吉は、落ち延びる者たちに本拠まで戻る暇を与えず、風吹峠、桃坂を越えて天正13年(1585年)3月23日には、根来寺に至りました。
精鋭の僧兵が不在の根来城はあっけなく攻め落とされました。根来寺は秀吉軍に焼き討ちされたとずっと信じられてきましたが、この通説に再検討を迫る史料が奈良県の長谷寺に所蔵されていることがわかりました。
智積院第3世の能化(のうけ=僧侶社会における長老、学頭などの指導者)であった日誉(にちよ)が寛永13年に著した『根来破滅因縁』と題するものです。
これによると、秀吉は高野山の木食応其(もくじきおうご)を使者として、根来寺に降伏の勧告をしたこと、それに反発した行人(ぎょうにん=寺院内で実務的な業務にあたる身分の者)衆がその夜、木食応其の宿舎を100挺の鉄砲をもって襲撃したことがわかるそうです。
「なお、もし秀吉の命令で焼き討ちしたのであれば、多宝塔・大伝法院本堂など根来寺の中心となる部分が焼け残っているのは不自然である」と『秀吉の天下統一戦争』の中で、著者である小和田哲男氏が述べておられます。
根来寺が落ちた翌24日には根来寺と共同歩調をとっていた粉河寺も落ちました。
雑賀衆は内部分裂が続き、混乱していました。秀吉は本願寺の顕如に降伏勧告を行わせ、大半の雑賀衆は勧告を受け入れ、あるいは脱出した者もいました。鈴木孫一は小牧・長久手の戦いのときから、鉄砲隊を率いて秀吉軍の一員となっていました。それぞれがつながりを欠いた中で、雑賀南郷の太田二郎左衛門尉を中心にした雑賀衆の一部と根来衆の残党、惣の農民たちなど合わせて3000~4000人が「太田城」に立て籠もり抵抗をつづけましたが、4月22日歴史に残る水攻めによって落城しました。
ここに、秀吉最大の脅威であった紀州の宗教勢力の2つが倒されたのでした。
まとめと補足
歴史に「もしも」は禁物ですが、織田信長が本能寺で殺されていなかったら、根来衆の運命も変わっていたかもしれません。
また、横のつながりを大切にする関係性をよりどころにする自治集団が政治の中心になる――フロイスが言うところの共和国という考えは、少し早すぎたのかもしれません。
根来衆・雑賀衆はいろいろな分岐点で道を選び間違えたのかもしれませんが、だからこそ、歴史に名を残したともいえます。
このような地方に埋もれた歴史について学ぶ機会があり、それをみなさんに共有することができたことをうれしく思います。
最後に、根来出城と秀吉をつないだ仲介者について、少し捕捉します。
卜半斎了珍(ぼくはんさい りょうちん)がその人です。その後、卜半家は、代々願泉寺の住職と地頭職(領主)を受け継ぎ、明治維新を迎えました。
願泉寺は、住職の「ぼくはんさん」が転訛(てんか)して「ぼっかんさん」と親しみを込めて呼ばれています。願泉寺の住職は今も卜半家が務めておられます。
なお、資料として以下を参考にさせていただきました。
- 『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』小和田哲男 著 吉川弘文館
- 『根来寺を解く 密教文化伝承の実像』中川委紀子 著 朝日新聞出版
- 『【図解】近畿の城郭 Ⅰ』中井均 監修 城郭談話会 編 戎光祥出版
- 『貝塚の城郭と寺院』貝塚市教育委員会 編集 パンフレット