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思い立ったが吉日! こんにちは、toproadです。
今回は以前、オンライン評定で話をした棒の手を名古屋まつりで見てきました。
僕も小学生高学年の頃に名古屋市守山区大森に住んでいて、棒の手をやっていました。
流派でいうと「大森検藤流棒の手」になります。
その頃に名古屋まつりにも出て、普段は見れない他の流派を見て楽しかった記憶があります。
棒の手とは?
名古屋まつり会場で配られていたリーフレットの内容より引用します。
各流派の解説もリーフレットからの引用になります。
オマントウ(馬の塔)が寺社に奉納されるときには、飾り馬の左右、前後に鉄砲や武器を持った警護役が必ずつき、社寺境内に入るとこれらの武術も披露されました。その中の1つが棒の手です。棒の手の起源は棒の持つ呪術的な要素が発達した神事芸能とする説、農民が自衛のために始めた武術芸能とする説があります。また、一説によれば、天文23年(1554年)尾張の岩崎城主(現日進市)が、棒の手にたけた者を集め猿投神社に詣でたのに始まるともいわれていますが、定説はありません。棒の手はその名前のとおり、木製の棒と竹刀で演ずるもの(表型)を基本としますが、江戸時代末期になると、太刀、十手、薙刀、槍、鎖鎌、長柄鎌などのキレモノを使うもの(裏型)が人気を呼ぶようになりました。棒の手にはさまざまな流派があり、棒の使い方(手という)は秘伝となっています。
「岩崎城主」という文言が出てくるとお城臭、戦国臭がしてきませんか? これから見ていく各流派の成り立ちも戦国時代からというものも多いと思います。
「つべこべ言わんと、実際見てみればいいんや!」と思いますが、それでは乱暴なので簡単に説明すると、「武器を持った人が掛け声を出しながら武器を振り回して、飛んだり跳ねたり、押さえつけたりしながらどちらかが討たれる、という型を見せるもの」となります。武術なのか、芸術なのか。見てみると迫力がすごいです。
名古屋まつりでは名古屋市内のいろいろな流派が集まるので、音楽でいうと「フェス」みたいなものです。各流派が5組前後の型を見せます。明日、大森で祭りがあって、棒の手も奉納されますが、各地の祭りは「ワンマンライブ」みたいなものです。流派それぞれの内容がたっぷり見れます。
それでは、今日見た7つの流派を紹介します。
猪高町鷹羽検藤流棒の手(名東区)
天文頃、真師流・起倒流の名で行われていたと伝えられ、寛政5年(1793年)8月1日の銘記のある許状がある。昔この地の柴田宇八が岩作村の加藤家の養子となり、岩崎の鷹羽検藤流の家元からこの奥義を伝授され、東一社(現在、名東区貴船学区内)の人々と共にこの流を広めたものである。名古屋市指定無形民俗文化財。
形的には僕のやってきた大森検藤流に近いように思えましたが、(今、流行りの?)二刀流がありました。
傘vs槍もありましたが、傘に槍が刺さってボロボロに。
善進町真影流棒の手(港区)
発生は、弘化元年(1844年)頃からといわれ、熱田神宮の祭礼に、馬の塔が奉納され、棒の手も奉納されてきた。善進町では、昔は男子満16歳の元服から、40歳までの若者がこの技に精進し、村の氏神、神明社の祭礼に必ず奉納されてきた。近年は子供も参加している。服装は紺無地黒襟の野良着姿で行われている。名古屋市指定無形民俗文化財。
野良着を着ているのが他の流派との大きな違いに思います。逆に昔の姿をリアルに伝えているとも言えるかもしれないですが。
他の流派は分からないですが、おそらくどこでも棒vs棒が基本でまずはそこからだと思います。
でも、薙刀vs鎖鎌もありました!
さらに、他にはない短い竹刀vs短い竹刀もありました!
その決着は?
何と、両方の竹刀が飛ばされて、素手での戦いになるという結末。
大森検藤流棒の手(守山区)
大森に棒の手が伝わったのは、天文19年(1550年)のこととされている。永禄11年(1568年)、柴田勝家の家臣、毛受家照によって、むやみに人を殺傷しない、仏道の精神を生かした独特な検藤流の型があみだされたとされている。古くから、社寺の祭礼などに奉納され、村の若者の義務として現在まで継承されてきた。また、検藤流の奥義を伝える「奥伝巻書」は、大森の法輪寺に現存しているが、みだりに見ることは許されていない。世の中が移り変わる中、消滅の危機に瀕したこともあったが、保存会を結成し、後継者の養成などを熱心に行い、現在は再び興隆の時期を迎えている。愛知県指定無形民俗文化財「守山の棒の手」のうちの1流派
自分がやっていたからというのはさて置いても、柴田勝家という戦国時代のビッグネームにつながるルーツ。
検藤流の最大の見せ場は棒状の武器側が刀を押さえつけるシーン。
膝をついた刀側が棒を受け止めて、一回伸びて、地面に顔をつけるくらいまで押さえつけられる。そこで棒がしなるほど抑えるのが検藤流。
中根町見当流棒の手(瑞穂区)
天文23年(1554年)の頃からこの地に始まったという見当流の創始は、加賀の本田遊無公なる人が奥義を究めたことによるといわれている。当時の中根城主織田信秀の子信照(信長の弟)がこの棒の手の妙技を以後大いに奨励したといわれている。明治元年の明治天皇御東遠の折熱田の八丁畷で展覧に供したという言い伝えがある。村社・東八幡宮の祭礼(毎年10月第2日曜の午後より)には天下泰平・五穀豊穣・子孫繁栄を祈願し、この技を神事芸能とし古来より奉納され続けている。名古屋市指定無形民俗文化財。
由来に信秀、信長、信照と尾張のビッグネームが出てきて、明治天皇まで!
形としては直立した状態から片膝を曲げる動作は独特に思える。
ベテランの方同士でやった棒vs木刀も最後は武器をお互い払われて素手vs素手になって、最後は肩の関節を極めて終わるという展開もなかなか見れないものとのこと。
二刀流もあって、内容が多彩ですね。
神影流桜の棒の手(南区)
大正5年(1916年)に建てられた「桜の棒の手保存記念碑」によれば、源義経が棒術を始め、その後美濃の加藤新五右衛門が、江戸城本丸で指南している時に、尾張の熊六右衛門に伝授され、その正統が桜に伝えられたという。型ちは48手裏表といわれ、奥義皆伝を受ける時には、止血の法を同時に授かるという。愛知県指定無形民俗文化財。
ガチ真剣やガチ薙刀などを使っているデンジャラスな流派。
結構な勢いで他の流派と同じスピードでやっているが、練習でケガ人が出たりしないのかな?
あと、他の流派と比べてアクロバティックに投げられる場面も多かった。
高針棒の手(名東区)
高針地区では棒の手の流派として、鷹羽検藤流、直心我流、鎌田流の3流派が江戸時代から伝承されている。鷹羽検藤流は高針がその発祥と伝えられており、北島・西古谷、東古谷・新屋敷の4つのシマ(地区)で伝承されている。また、直心我流は新屋敷で、鎌田流は前山と西山の2つのシマで伝承されている。名古屋市指定無形民俗文化財。
コロナでやる人が激減して、10年振りの名古屋まつり登場とのこと。
この流派にも二刀流。でも、基本的にどこの流派も内容は同じに見えた。もともと同じものが各地に広まったのだろうか。
あと、この流派でも傘vs槍があった。これは鷹羽検藤流なのかな。
鍋屋上野町源氏天流棒の手(千種区)
鍋屋上野町の棒の手は、源義家の子孫とされる三河国の吉良三郎義康を始祖とする流派と伝えられる。流派名「源氏天流」はこれにちなんで名付けられたという。明治2年に猪子石村の酒井又右衛門から当地の人々が極意免許を受け、この地に広まった。戦後、一時衰えたが、昭和27年に保存会が結成され、平成24年には保存会結成60年となり、棒の手の伝承や後継者の育成に努めている。名古屋市指定無形民俗文化財。
女の子や子供も多くて、そのまま続けてほしいと思う。
木の枝みたいな細いものを持ってたけど、名前を忘れてしまいました。すぐに折れそうな見た目だったけど、十手感覚で使っていました。
細い棒vs鎌
相手の棒が地面についた時の押さえ方にこの流派の特徴がありました。
チョンチョンつついて安全を伺うような仕草。
あと、刀や棒のしまい方にも流派の違いが現れます。
手を広げてから刀をしまう
まとめ
自分がやっていた立場として、いろいろな違いを見れるのが名古屋まつりの良さです。思わず真剣なまなざしで、時には手を動かして見てしまいました。
今日は「フェス」だったので、明日は育った町の祭りという「ワンマンライブ」を見ます。
今日、見て思ったのは、刀vs槍の組み合わせは尾張流槍術の影響を受けたものなのか、棒の手が尾張流槍術に影響を与えたのか。それについては(資料がなさそうだけど)僕の中では研究課題としておきます。すぐには調べて分かるものでもなさそうなので。
隣に座っていた夫婦と小さな女の子が目を輝かせて見ていました。
千種区在住とのことなのでおそらく鍋屋上野町が最寄りかなと思います。
たまたま、名古屋まつりに来て、たまたま棒の手を見た、明日は名古屋市科学館が無料だからそちらに行くと言っていました。
ヒザをケガした体力のないオジサンはもう棒の手をやろうと思えないけれど、今は女性も棒の手をやる時代、隣で見ていた子がこれをキッカケに棒の手をやってくれるといいなと思いました。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。今回は以上です。