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金山越し講演会レポート(「日本最古の天守」の部分のみ)

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0.章立て

以下の章立てになっています。

  1. はじめに
  2. 「金山越し」について
  3. 講演内容の概要
  4. 「金山越し」を肯定する理由について
  5. 「金山越し」の範囲
  6. 最後に
  7. 参考文献

1.はじめに

こんにちは。城郭建造物大好き・ごましおです。

2024年10月6日(日)14:00〜15:30に岐阜県可児市金山小学校で行われた金山越し講演会「日本最古の城門と天守 〜美濃金山城から引っ越した犬山瑞泉寺の門と犬山城天守〜」(三浦正幸広島大学名誉教授・工学博士)に参加しました。

この講演会のうち「日本最古の天守」の部分、つまり美濃金山城から犬山城へ天守が移築されたとする見解の部分についてレポートします。

なお、団員ブログ初投稿になりますので、不手際等はご容赦ください。


2.「金山越し」について

可児市によれば「金山越し」というと関ヶ原の戦いに際して破城された美濃金山城の資材が木曽川の水運を活用し犬山に運ばれ再利用されたという伝承のことを指すようですが、本レポートでは「金山越し」をさらに限定して美濃金山城天守が犬山城天守として移築されたという見解として扱います。なお、この「金山越し」には肯定派と否定派が存在します。


3.講演内容の概要

かなり読みにくいかも知れませんが、講演内容の概要を箇条書きにしてみます。

資料の1ページ目

・美濃金山城を大々的に作り直した人は森忠政です。

・森家は織田家に仕えて、その後豊臣家に仕えた名門中の名門の武将です。

・森忠政は有名な信長の小姓であった森蘭丸の弟になります。

・美濃金山城は比高180mの山城で、ものすごく高い山城のうちの一つになります。

・寸法は東西が310m、南北が130mで、城内の曲輪の総面積は、8900平方メートルです。

・最低籠城するには500人位必要な城で、関ヶ原以前の山城で500人の守備力が必要な城というのはかなり大きな城です。

・森忠政は美濃金山城の城主になったときに7万石という豊臣政権下ではかなりの大きな大名ですので、間違いなく天守を建てたと思われるそうです。

・一方、その時期に犬山城の城主は最大で見積もっても1万2千石しかなかったので、天守を建てる能力のある大名は誰もいなかったと思われるそうです。

・美濃金山城の作り方は室町時代の山城の本丸を拡大してなおかつ石垣で作った結構最新鋭の山城だったということが言えます。

・美濃金山城の出丸は山城の出丸としては日本最大級の出丸です。

資料の2ページ目

・美濃金山城の本丸の周りは総石垣です。

・美濃金山城の本丸御殿の礎石がいっぱい見つかっています。

・美濃金山城の本丸御殿の一間は六尺二寸五分という寸法だっただろうと推測されます。

・六尺二寸五分という寸法は極めて特殊で日本全国の御殿もしくは天守閣の一間の寸法を調べても

美濃金山城の御殿と犬山城の天守しかないそうです。

・天守というのは元々書院造りの建物を上下に積み上げてできた御殿建築から始まっているそうです。

・これは犬山城天守が美濃金山城の本丸に建っていたという大きな証拠のうちのひとつになるのではないかと思われるそうです。

・破城で一番徹底的に壊すのは天守台です。

・美濃金山城の中で一番酷く石垣が壊されているところが天守のあったところだと考えられます。

・資料の2ページ目の本丸左上の部分は徹底的に壊されて、石がほとんど残っていないので天守はここにあったのではないかと思われるそうです。

・また天守を建てるときの位置は本丸の入口から入ってから一番奥に建てるというのが大原則なんだそうです。

・もうひとつの原則は本丸御殿の奥に建てるというのが原則だそうです。

・資料の2ページ目の本丸右端は、壊されてはいますが、石垣がまだ少し残っています。ということは、天守があったのはこの右端のところではないと思われるそうです。

資料の3ページ目

・犬山城天守の一階は台形に歪んでいますが、台形に歪んでいるのは犬山城に移築したときに台形に変更されただけで、元々は正方形だったと思われるそうです。

・台形の犬山城の天守を正方形に整形して、資料の2ページ目の本丸左上の部分に入れると本丸御殿とぴったり合うのだそうです。

・関ヶ原以前の古い天守ですが、正方形に近い天守は実はほとんどなくて、ほとんどの天守は細長い長方形だそうです。

・正方形の天守が好きだったのはたった二人で、一人は藤堂高虎、もうひとりが森忠政だそうです。

・森忠政は、美濃金山城の天守、犬山城を建てたと認めたとすれば犬山城の天守もほぼ正方形、転封先の松代城の天守がもし建っていたとしたら正方形、さらに転封先の津山城の天守は完全に正方形だそうです。

・犬山城の天守が年代が古いにも関わらずほぼ正方形というのは森忠政の好みだということも言えるんだそうです。

・一階の部分がちょっと台形になっていますが、これは石垣が歪んでいるから台形になっているのだそうです。

・一階と二階は同じ大きさで作ってありますが、一階の石垣が歪んでいるところだけ斜めになっていますので、天守自体の大きさは二階とほぼ同じです。

・両端のところが二間ずつ六尺二寸五分で、真ん中のところだけが六尺二寸になっていて五分だけ違っています。

・なぜ、六尺二寸と六尺二寸五分がごちゃまぜになっているかというと全部を六尺二寸五分で作ろうとしても、慶長6年ごろは石垣の築城技術があまり上手じゃなかったので、若干寸足らずの天守台ができてしまったためのようです。

・このため真ん中の三間分を五分ずつ縮めて、合わせて約5cm縮めたのだそうです。

・五分ずれると桁が使い物にならなくなりますので、乗っかっている桁だけ新品にしなくてはいけないそうです。

・桁が新しいのに取り替えられましたので、今から70年前に行われました犬山城天守の解体修理のときに、桁に釘穴が一つしかなかったからこの天守は移築されたことはないという見解は否定できるそうです。

・犬山城天守の一階と二階は全て木曽檜でできていて、とても立派なのだそうです。

・日本中の天守の中で木曽檜でできた天守というのは名古屋城天守や江戸城天守などほんのわずかな天守だけで、他の天守は木曽檜でできていないので、犬山城天守は非常に特異な天守だと言えるそうです。

・柱の削り方は槍鉋(やりがんな)という槍の形みたいので削っていて、しっかり目を凝らすと見事な槍鉋の筋が出てくるそうです。

槍鉋の筋か?(犬山城天守内部2階。ごましお撮影)

・槍鉋で削った柱が残っているのは日本中を探して犬山城天守だけで、ものすごく古いことが分かるそうです。

・犬山城天守は元々全部畳敷だったんですが、畳は敷いておいても役にたたないので、段々段々無くなってしまって現在では一間だけ畳が敷いてあるそうです。

・窓がない、もしくは戸がほとんどない、壁ばっかりで囲まれた部屋のことを納戸というそうです。

・犬山城天守は室町時代の納戸の形が残っている日本で唯一の天守で、記録上分かっているのは織田信長の安土城天守だけです。

・したがって極めて古い床部であることが分かり、他の天守ではありえないそうです。

・天守には必ず部屋の周りに入側である武者走りがぐるっと一周回ります。犬山城を見ると、武者走りに通せんぼがいっぱいあり、これを杉戸と言いますが、現在は天守の観覧に邪魔ですので杉戸は全部外してあります。

・武者走りのところは籠城の時に兵士が走り回らないといけません。そんなところに杉戸で通せんぼしていたら邪魔で籠城なんてできませんが、これは身分の違うものが走り回れないようにしているためです。

・これは天守として元々の原型を残していることになりますので、したがって関ヶ原の戦いの後では考えられないので、犬山城天守は関ヶ原の戦い以前のものであります。

・現在、犬山城天守は公式見解では関ヶ原の戦いの後の慶長6年(1601)に現在の犬山城は新築されたことになっております。

・なぜかという1600年、関ヶ原の戦いの時まで、今の天守台のところに神社が建っていて天守を建てられないという論文が書かれており、犬山城天守は現在の位置には関ヶ原の戦いの前は建っていなかったからです。

・ところが天守自体は、関ヶ原の戦い以前の形を示していて、この矛盾は、美濃金山城天守が犬山城天守として慶長6年(1601)に移築されたということを認めない限り、絶対に解決できないそうです。

・犬山城天守は八間掛ける八間半という寸法です。

・現在残っている天守で、一番大きなのは姫路、二番目が松江で、なんと日本現存第三位の天守で、土佐一国の二十万石の天守である高知城天守よりも犬山城天守の方が大きいのです。

・犬山城天守の下の方の一階と二階、この部分が美濃金山城天守から移築されていて、上の方の三階と四階は現在の犬山城として移築された後に建て直しをしているので、上の方の三階と四階は美濃金山城天守とは関係ないそうです。

資料の4ページ目

・犬山城の三階の部分のところが、二階より中途半端にちょっと変なところに半間ずつ出っ張りが付いているそうです。

・通常天守の骨組みでこんなところに半間という中途半端な出っ張りはありませんので、これは実はこの上に乗っている三階は今幅が狭くて三間になっていますけど、元々は四間の大きさであっただろうと考えられますので、美濃金山城に犬山城天守が建っていた時は現在の犬山城天守よりももう少し上の方が大きかったと思われるそうです。

・現在の犬山城天守は三重四階ですが、美濃金山城天守は三階がもう少し大きかったことが分かりましたので屋根が一重増えて四重五階の天守だったのではないかと思われるそうです。

・犬山城の最上階は三間掛ける四間となっていますが、美濃金山城の最上階は現在の犬山城天守よりちょっと小さい三間四方のようです。

・現在の犬山城天守は板が張った黒壁ですが、美濃金山城にあったときは姫路城天守と同じように白漆喰の塗籠で真っ白だったと思われます。

・白壁にすると雨に濡れて痛みが酷いので、その後になってから板壁を張るようになったと考えた方が日本の建築の歴史から考えると当たり前のことになるようです。


4.「金山越し」を肯定する理由について

以下の理由により「金山越し」は肯定できるそうです。

・天守というのは元々書院造りの建物を上下に積み上げてできた御殿建築から始まっているそうです。そして一間が六尺二寸五分という寸法は極めて特殊で日本全国の御殿もしくは天守閣の一間の寸法を調べても美濃金山城の御殿と犬山城の天守しかないそうです。

・犬山城天守の一階は台形に歪んでいますが、台形に歪んでいるのは犬山城に移築したときに台形に変更されただけで、元々は正方形だったと思われるそうです。そして関ヶ原以前の古い天守で、正方形に近い天守は実はほとんどなく、藤堂高虎と美濃金山城天守を建てた森忠政が採用した程度で、ほとんどの天守は細長い長方形だそうです。

・台形の犬山城の天守を正方形に整形して、資料の2ページ目の本丸左上の部分に入れると本丸御殿とぴったり合うのだそうです。

・桁が新しいものに取り替えられたので、今から70年前に行われた犬山城天守の解体修理のときに、桁に釘穴が一つしかなかったからこの天守は移築されたことはないという見解は否定できるそうです。

・森忠政は美濃金山城の城主になったときに7万石という豊臣政権下ではかなりの大きな大名ですので、天守を建てたと思われますが、その時期の犬山城の城主は最大で見積もっても1万2千石しかなかったので、天守を建てる能力のある大名は誰もいなかったと思われるそうです。

以下は犬山城天守が特異な天守と考える理由になります。(=名門森家もしくはそれに相当する名門が天守を建てたのではないかと考えられます)

・犬山城天守の一階と二階は全て木曽檜でできていて、日本中の天守の中で木曽檜でできた天守というのは名古屋城天守や江戸城天守などほんのわずかな天守だけで、他の天守は木曽檜でできていないので、犬山城天守は非常に特異な天守だと言えるそうです。

・槍鉋で削った柱が残っているのは日本中を探して犬山城天守だけです。

以下は犬山城天守が関ヶ原の戦い以前に建てられたのではないかと考えられる理由です。

・窓がない、もしくは戸がほとんどない、壁ばっかりで囲まれた部屋のことを納戸といい、犬山城天守は室町時代の納戸の形が残っている日本で唯一の天守で、記録上分かっているのは織田信長の安土城天守だけと、極めて古い床部であることが分かり、他の天守ではありえないそうです。


5.「金山越し」の範囲

・犬山城天守の一階と二階が美濃金山城天守から移築されていて、この上、つまり三階以上は現在の犬山城として移築された後に建て直しをしているので、三階以上については美濃金山城天守とは関係ないそうです。

・移築の際に桁は全て新しいものに取り替えられたそうです。


6.最後に

「金山越し」に関して、いくつか疑問点も残ったのですが、とても楽しい講演会でした。このレポートでは触れていませんが、「日本最古の城門」の方もとても興味深い内容でした。美濃金山城は歴史ロマン溢れるお城なのだということがよく分かりました。今回の講演会に合わせて犬山城と美濃金山城をざっくりと攻城したのですが、現存・移築建造物しかちゃんと見ていなかったので美濃金山城の攻城は不完全燃焼に終わりました。特に天守が建っていたと思われる位置は完全に違うところだと思っていて見ていなかったのが悔やまれます。


7.参考文献

以下は「金山越し」に関する参考文献です。興味がある方は読んでみてください。なお、ごましおも全部は目を通せていません。

「金山越し」肯定派の文献

  • 髙木鋼太郎「犬山城創建の謎を解明する」
  • 髙木鋼太郎「犬山城移築説(金山越)の真相に迫る」
  • 横山住雄「国宝犬山城と城下町」

など

「金山越し」否定派の文献

  • 柴田慎平/佐藤佑樹/松原草太「美濃金山城跡の再検討」
  • 中井均 他「美濃金山城跡主郭発掘調査報告書」
  • 西和夫「犬山城天守の創建年代について」
  • 城戸久 他「国宝犬山城天守修理工事報告書」

など

肯定派か否定派かは不明だが関係のある文献

  • 麓和善「国宝犬山城天守の創建に関する新発見」

など

以上です。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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