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「安土城天主台周辺の発掘調査」講演レポート

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6月2日に米原町で「第18回鎌刃まつり」が開催され、午前の鎌刃城現地見学会に続き午後より滋賀県文化財保護課の岩橋隆浩氏により「安土城天主台周辺の発掘調査」について講演がありました。会場は西番場会館といつ地元の公民館の2階で先着70名の定員でしたが、入りきれず床に座って聴講する人がおられるほど盛況でした。

講演内容

まず安土城の1576年の築城から本能寺の変におけるお城の炎上までの歴史を説明されました。そこで安土城はすべて灰燼に帰したのではなく主郭部のみが焼失したことを発掘調査の過程で証明されていることを強調されていました。また昭和15年・16年の天主台と本丸の発掘調査が現在我々が見ることの出来る状態になったとともに昭和35年から50年までの石垣修理でどの石垣がどのように修理されたのか内容が不明確という問題をあげられています。岩橋さんは平成7年度から12年度の遺構確認調査にも携わっておられ、今回令和5年度の発掘調査についてスライド写真を使いその成果を詳しく説明されました。令和5年度の発掘調査の目的として天主台周辺地区の環境整備に関わる資料を得るため天主台東面及び本丸取付台北半部の発掘調査を実施。

①天主台東面には天主台石垣の築石と石垣の崩落土層を検出できた。ただこれは本能寺の変後に焼失・倒壊した時以降に、自然倒壊ではなく人為的に崩された「破城」である可能性も考えられる。ちょうど天正13年の八幡山城の築城に伴って廃城になることからもその可能性が考えられる。

②本丸取付台の建物礎石の残存状況を確認、礎石からは柱の痕跡など火災の痕跡が見られ安土城炎上の様子を物語っている。被熱した遺物の堆積物が見られないことから火事場整理が行われた場所である。

③これまで公文書でしか確認できなかった昭和40年代の石垣修理の実施状況を現地の遺構で確認することができた。修理に際して裏込めも含めて石垣を積み足したことが考えられる。

総括

今回の調査では信長時代の安土城だけでなく、本能寺の変から現代にいたるまでの安土城の歴史を物語る遺構が文字資料だけで確認されていたことが遺構として明らかになったことを最後に強調されていました。安土城はまだまだ「伝○○邸」とか「伝三ノ丸」という場所が多く、毎回の地道な調査で歴史が少しでも明らかになることは永遠に興味深いことであると強く感じましたので講演内容を攻城団のみなさんに共有させていただきます。

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この記事を書いた団員

ばやしさん

関東に単身赴任で7カ月経ちました。石垣好きですが、関東の城を見て土の城に魅せられています。城に夢中になりすぎてお昼ご飯を忘れることがしばしばあります。

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