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織田・徳川vs武田、境界国衆の戦い「長篠・設楽原の戦いはどんな戦いだったのか」を聞いてきた!

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思い立ったが吉日! こんにちは、toproadです。

11/23(土)の第3回小牧市歴史講座に続いて、11/30(土)に第4回小牧市歴史講座「織田・徳川vs武田、境界国衆の戦いーー長篠・設楽原の戦いはどんな戦いだったのかーー」を聞いてきました。

前回のレポートに続いての内容で、講師は今回も新城市設楽原歴史資料館、新城市長篠城址歴史史跡保存館の館長、湯浅大司さんです。

前置き

趣味と好きな分野

僕の趣味は将棋、麻雀、競馬、スポーツ観戦などがあるのですが、基本的な共通点としては戦術とか戦略があったり、考える場面が多かったりというところがあります。

なので、城巡りや歴史の話にしても、戦術や戦略だったり、合戦の背景だったりということに興味があります。

今回の講座は長篠・設楽原の戦いにおける武田勝頼の戦略、織田信長の戦術、徳川家康の立場、山家三方衆をはじめとする奥三河、遠江の国衆の立場などの興味深い話を聞くことができました。

牧之原市史料館に貼ってあった王位戦のポスター

『長篠合戦』と講座

今日の講座は以前、僕が読んだ『長篠合戦』と同じような内容でした。

なので、今回のレポートは『長篠合戦』のレビューとも重なります。

『長篠合戦』については長篠の戦いの城がたりをやるのであれば読んでおきたいと思って読んでいました。

ただ、城がたりを開催するのであれば、僕はパソコンを持っていないので、「パワーポイントで資料作るの大変だな」って思っていたのが正直なところです。

『長篠合戦』

でも、こうして団員ブログが始まったおかげで長篠、設楽原の戦いについて書けることがすごくありがたいです。

長篠、設楽原の戦いの城がたりについては長篠城や設楽原での城たびの前哨戦として開催出来ればと思っています。

長篠城址史跡保存館

レポート

章立て

今回の内容も章に分けてみます。

僕は大河を見ない人なので、「どうする家康」も見てない「なんちゃって家康ファン」なので、大賀弥四郎(大岡弥四郎)事件は出てきていたというくらいしか分からないです。

なので、ひょっとしたら僕からしたら「そうだったのか!」と思わされたことでも、大河ではやっていて、みなさんはすでにご存知の内容かもしれません。

  1. 大賀弥四郎(大岡弥四郎)事件と武田軍の動き
  2. 徳川家康の吉田城籠城
  3. 武田勝頼の戦略
  4. 織田信長の思惑
  5. 長篠・設楽原の戦いの開戦
  6. 鉄砲三段撃ちの謎
  7. 感想
  8. まとめ
設楽原の馬防柵案内板

1.大賀弥四郎(大岡弥四郎)事件と武田軍の動き

僕のイメージでは武田軍は遠江方面から長篠城めがけて攻めてきたのだと思っていました。

でも、実際のところは武田軍は「大賀弥四郎(大岡弥四郎)事件」に合わせて足助城にいて、岡崎城へ攻め入る予定だったようです。

「大賀弥四郎(大岡弥四郎)事件」とは、岡崎城にいる松平信康をかついで、城内の大賀弥四郎(大岡弥四郎)が武田軍を迎え入れるというクーデター計画があり、それが事前にバレてクーデターは未遂に終わったという事件になります。

大賀弥四郎(大岡弥四郎)という表記にしているのは『三河物語』に影響を受けた資料では「大賀弥四郎」となっているが、『岡崎東泉記』等の資料では「大岡弥四郎」となっているとのことからです。

「どうする家康」では「大岡弥四郎」だったとのことです。

足助城から岡崎城へと軍を進めた武田軍はそのまま南下します。

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足助城の復元櫓

2.徳川家康の吉田城籠城

武田軍は岡崎城へ入れないと分かると武田信玄の時と同じように野田城へ向かい、菅沼定盈は戦わずして野田城を明け渡します。

そして、武田信玄のプランと同じように吉田城へ向かいます。

徳川家康は吉田城を守るために籠城、徳川軍5,000vs武田軍1万2,000だったようです。

通常、籠城戦は攻める側が守る側の兵力の3倍必要と言われているので、武田軍の兵力は少し足りません。

徳川軍の必死の籠城もあったのか、吉田城を落とせなかったので長篠城へ向かいます。

その時の山家三方衆は奥平貞能、信昌親子だけは死んだことを公表されていなかった武田信玄の生存を疑っていて、徳川側についていました。

奥平親子は武田家との最前線の長篠城を天正3年2月28日に家康から任されます。

その他はまだ武田側でした。

『長篠合戦』によると「ひと働き」という表現があるようなので、「帰りについでに長篠城を攻める」くらいの感覚だったのかもしれません。

湯浅さんは「武田勝頼はあえて長篠城を落とさなかったのではないか? のちの徳川家康の高天神城攻めの時のように徳川家康が長篠城に援軍を送れるかどうか試したのではないか?」とおっしゃっていました。

いくら長篠城が3つの川に囲まれた要害であっても、1万5,000vs500なら力攻めで簡単に落ちそうな気はします。力攻めで簡単に落ちていたら鳥居強右衛門の逸話もなかった訳ですが。

徳川家康とすると、武田信玄の時のデジャブのように(籠っている城をスルーはされていないけれど)目の前の城を攻められている、三方原では出ていってコテンパンにやられた、という過去を思い出していたかもしれません。

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吉田城の隅櫓

3.武田勝頼の戦略

足助城にいる時から武田勝頼は「信長包囲網」との連携を意識していたようです。

この頃の織田信長は「信長包囲網」と対峙していて、本願寺や毛利家との戦いのさなかでした。

武田勝頼としては、長篠城に援軍が来ないなら徳川家の信頼が落ちて、武田家の評判が相対的に上がる、織田信長が仮に援軍に来たとしても、長期戦に持ちこめば本願寺や毛利家が動く可能性があると考えていたようです。

そして、織田信長が援軍に来るなら、織田信長、徳川家康、両軍をつぶすチャンスと思っていた。

戦前に偵察の者からの報告を受けた武田勝頼は「織田信長、徳川家康の兵力は少ないし、なすすべなく見ているだけだから勝てるだろう」と家臣にあてた手紙に書いています。

武田勝頼としては「勝てるいくさ」と考えていたようです。

医王寺山の案内板

4.織田信長の思惑

織田信長としては、徳川家康の援軍要請に応えない訳にはいかないが、本願寺攻めを考えるとできるだけ兵力を温存したかった。

そのため、兵力を温存しながら勝つための動きがいろいろなところに現れています。

武田勝頼が「相手の兵力は少ない」と思っていますが、実際は戦いの前には相手から見えにくい位置に布陣していたようです。

また、連吾川が流れている湿地帯の設楽原の地形を考えて、馬防柵を作っています。

そして、細川藤孝に鉄砲を用意させて、いくさに備えています。

イメージでは織田信長、徳川家康側が積極的に仕掛けたと思われがちかなと思いますが、織田信長としてはどちらかというと守備的に考えていたのではないかと思います。

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馬防柵

5.長篠・設楽原の戦いの開戦

『長篠合戦』では武田勝頼が相手の兵力が少ないことを見て、自分から設楽原へ進出したと書いてあります。

講座では鳶ケ巣山への奇襲が原因で設楽原へ進出したとおっしゃっていました。

いずれにしても、鳶ケ巣山の奇襲が原因でいくさが始まったと思います。

持久戦になってもよいと考えていた武田勝頼は本陣を鉄砲の脅威にさらされることのないところ置きます。

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武田勝頼が少ないと思っていた織田、徳川の連合軍の兵数は3万8,000でした。

また、設楽原は連吾川が流れていて、さらにその周りには湿地帯が広がるといった地形です。

今は湿地帯は田んぼになっていますが、昭和の初めまでは田んぼも沼みたいになっていて、入ると埋まってしまうので、「笠をかぶって入るように」と言われていたようです。(笠をかぶっていればどこにいるかわかるから)

連吾川を渡るにも、道は3か所しかなかったようで、武田軍としてはそこに兵を集めて突破を試みるという戦い方しか選択肢がなかったとのことです。

昔からの家臣は織田信長が出てきた時点で勝てないからと退却を進言したと言われますが、実際は挟み撃ちにあっているので「逃げたくても逃げれない」状況だったのかな? とも思います。

逃げるにしても北側しかないのですが、設楽原の北側に居城のある山家三方衆が戦況を聞いて裏切ることも考えられます。

武田勝頼としては織田信長と徳川家康両方を潰すチャンスであったし、「信長包囲網」としても、ここで引いたら役目を果たせない、評判も落ちると考えたのかも知れません。

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設楽原の様子

6.鉄砲三段撃ちの謎

最近は「鉄砲三段撃ちはなかった」といわれますが、「三段撃ち」という言葉からイメージされるのが「三列に並んだ撃ち手がポジションそのままに列ごと入れ替わって撃つ」という方式になるから、それは否定されているということだと思います。

撃つ準備をするのに30秒はかかります。

できるだけ兵力を温存したい織田信長にとっては、3か所に集中して向かってくる相手を常に撃っていたかった、そして、常に撃っているやり方をしたと考える方が自然です。

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僕も地元の郷祭で鉄砲を撃っている様子を間近でみましたが、やはり撃つまでの時間がかかる印象です。

実際に湯浅さんも設楽原の鉄砲隊の一員とのことで、検証企画でも鉄砲を撃ったことがあるとのことで、当日はその際の映像も見せていただきました。

火縄銃も持参されていて、実際に撃つ準備も見せていただきました。

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資料の「ろ」は①の人が撃って、②の人が撃ち終わった銃をもらって渡す。③の人が準備して①の人に渡す、という内容です。

資料の「は」は高さの違う場所から三段になって撃つという内容です。

資料の「に」は列にこだわらずに③に撃ち終わった人が下がり、②の場所で準備する、準備が終わった人から空いている①の空間で撃つという内容です。

確かに「に」のやり方の方が早かったので、実際は「に」の運用だったのではと思います。

そして、いくさ自体は早朝から始まり、8時間くらいで決着がついたようで、織田、徳川連合軍の勝利で終わったのはみなさんご存知の通りです。

竹広激戦地の石碑

7.感想

今回の講座は本の内容を確認するような内容でした。

その中でも、「武田軍はあえて長篠城を落とさなかったのでは?」というところは「なるほど」と感じました。

あと、忍者(忍び)の城がたりを開催した者としては、「当日の天気の判断も忍びがしたのかな?」(雨だと鉄砲が使えない)と考えたり、「武田軍の忍びは織田軍、徳川軍の兵数の多さを見抜けなかったのだろうか?」と疑問に感じたりしました。

織田軍、徳川軍の兵が見えなかったところに実は合戦の勝敗のカギがあった、と言うと言いすぎでしょうか。

「湿地帯での戦い」という点では島津vs龍造寺の「沖田畷の戦い」にも影響を与えているのでは? とも思いました。話はそれますが、個人的には島津の戦法は中国を初めとするいろいろないくさの歴史を参考にしているのでは? と思っています。

ちなみに今回、亀姫が全く出てこない内容だったのですが、「亀姫は長篠・設楽原の戦いの際に長篠城の中にいたのか?」ということについて、前回、今回の内容を踏まえると、僕の見解は「城内にいた」となります。

徳川家康が奥平貞能、信昌に領地を与える書状を出しているのが天正元年(1573年)8月20日で、長篠城を与えているのが天正3年(1575年)2月28日で1年半ほど時間があるので、その間に結婚していると思うからです。

その間に僕の知らない、何か特別な事情があれば違った話になってきますが。

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長篠城遠景

8.まとめ

前回、今回と講座の内容のレポートを書かせていただきました。また、『長篠合戦』の内容でもあったので、レビューも兼ねた内容になりました。

僕は内容を要約することは得意だと思っているので、時間がなくて講演や講座に行けない方、本を読む時間がない方の手助けになっていれば幸いです。

また、奥三河を体験してもらいたいという思いも高まったので、長篠城や設楽原の城たび、古宮城や亀山城の城たびを企画したいと思っています。

ここまで読んでいただいてありがとうございました。今回は以上です。

   
この記事を書いた団員

toproadさん

愛知県小牧市在住の団員です。 鳳来町(今は新城市)の長篠城近くの生まれ、名古屋市育ち。 話す言葉は名古屋弁です。

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