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みなさんこんにちは、黒まめです。
12月15日(日)、「金屋土居跡発掘調査現地説明会」に参加してきました。
実際に目にする石垣、柱穴などにワクワクし、大興奮しました! いつもデジカメと並行してスマホでも写真を撮るのですが、それすら忘れてしまうほどでした。
「こども園」建設のための発掘調査なので、このまま埋め戻される可能性が高いこともふまえ、何らかの形でみなさんに共有したいと考えたのが、このブログ執筆のきっかけです。
どこまで伝えられるかわかりませんが、どうかおつきあいください。
金屋(かなや)土居とは
和歌山県有田川町大字金屋(小字土井)の鳥屋城(とやじょう)小学校周辺にあり、鳥屋城山の山頂に築かれた山城「鳥屋城(和歌山県指定史跡)」と対を成す中世の平地城館跡です。
この小字名「土井」に見られるように「ドイ(土井、土居)」とは、土を積み上げて構築した土塁を指す用語で、かつて城館が存在した場所に多く残る地名です。
江戸時代後期に著された『紀伊続風土記(きいぞくふどき)』の金屋村の記述には
屋敷跡2箇所 共に村の北部にあり。一つは畠山刑部大夫(ぎょうぶたいふ)の屋敷跡といい 一つは神保式部大夫の屋敷跡という。共に今は田地となれり。
とあり、金屋土居跡は、室町時代の紀伊国守護である畠山氏の居館であると考えられてきました。
位置的には、早月川が有田川と合流する地点に築かれ、西と南を両河川に防御された天然の要害となっています。
また、有田川に面することで有田川を介した流通や交通の支配にも関わったものと想像されます。
北側には、水路と周囲より低くなった畑地が続き、外堀跡と推定されています。
規模は東西160m、南北110mの範囲と推定されます。
また、ここでは鋳物師(いもじ)の作業場を指す「金屋」や、市が立ったことからつけられた「市場」という地名が残り、畠山氏がこの地域に拠点を築いた後に町を整備し、発展したことを示しています。
発掘調査によりわかったこと
鎌倉時代にさかのぼる!
これは、今回発掘された遺跡の西側で、掘立柱建物4棟の跡が検出されました。
時期は鎌倉時代にさかのぼり、紀伊国最大の武士団であった湯浅党の拠点の1つとして築かれたものと推定されます。
湯浅党の拠点を畠山氏が継承
湯浅党は、南北朝期を境に衰退し、その後紀伊国守護となった畠山氏が、その拠点を継承し、大規模に居館化したものと考えられます。
畠山氏が継承した時期は、堀跡から出土した遺物から判断して、14世紀末から15世紀初頭と考えられます。このことから、応永6年(1399年)に、畠山基国が紀伊国守護に就任した後ほどなくして居館化され、畠山氏一門(石垣家)の居館であったと推定されます。
写真に見えているのが、鎌倉時代の遺構(右側)と畠山氏が新たに堀った堀跡です。
畠山氏の居館の中心部は写真上に見えているフェンスの向こう(鳥屋城小学校グラウンド)にあったようです。
堀には改修の跡が……
居館内部の区画や防御のために設けられた堀跡は室町時代から戦国時代のもので、南北(前項の写真の堀)と東西(上写真の石垣の部分と手前の平らな部分)に通る堀跡が検出され、2つの堀の間には土橋(下写真手前部分)がありました。
東西方向の堀は16世紀に行われた居館の改修に伴い、埋められ、土橋も消滅しました。
堀底からは、人工的な切断面がある樹木が出土しています。
建築部材や木製品に加工される予定であったものが保管されていたか、使用されずに廃棄されたものと考えられます。
石垣、土塀、虎口(門)跡
東西方向の堀を埋め、堀内に石垣を構築していたことがわかりました。
堀底に堆積した粘土層の上に多量の石を投棄し整地した上に、河原石をほぼ垂直に積み上げたもので、延長約10m、最も残りの良い部分で約1mの高さがあります。
裏込めの下半分は栗石(ぐりいし)で、上部は土で固めながら築いています。
石垣の外側に、石垣に沿って土塀跡(写真右端の盛り上がった部分)が見つかりました。
石垣の外に溝があり、その外に土塀という珍しい構造をしていると思いました。「土造り」から「石造り」への過渡期の試行錯誤の状態なのでしょうか。
埋められた東西方向の堀の北側に南北に3条の石列からなる門状の施設を伴う虎口が設置されていました。
石垣、土塀、虎口と北側の防御を意識した改修を施したことがわかります。
出土した遺物
鎌倉時代(湯浅党の遺物 左端3点)と室町時代~戦国時代(畠山氏の遺物 その他)とに分けられていましたが、どちらにも、青磁、染付など高級品が混じり、土地の有力者のものであることが推測されます。
さらに「金屋」という地名とも関連する「フイゴの羽口」が出土しています。
現地説明会に参加して思ったこと
発掘調査とは、科学の実験のようなものだと思いました。
文書史料でわかっていた湯浅党衰退と畠山氏の紀伊国守護就任にともなって、土居の継承が行われたことが発掘調査であきらかになったことは、素晴らしい発見だと思いました。
また、畠山氏は、家督相続問題での一族の争い、激しい武力衝突、さらには、永正17年(1520年)には室町幕府の奉公人である湯河氏との対立により、広城(広川町)を奪われ、守護職の畠山尚順(ひさのぶ)が追放されるなど、大きな軍事的緊張にさらされていました。
最後にたどりついたこの地で「何とか生き残ってやる」と考えた末での16世紀の大規模改修があったのではないかと想像すると、畠山氏がとても身近に思えました。
そして「フイゴの羽口」が出土したことで、「金屋」という地名の由来とつながりました。
発掘調査により初めてわかったことへの新鮮な驚き、また、史料でわかっていたことと、実際に目の前に現れた事象がつながっていくことの小気味よさに感動を覚えた今回の現地説明会でした。