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続・金山越し講演会レポート(「日本最古の城門」の部分のみ)

こちらもご覧ください!(広告掲載のご案内


0.章立て

以下の章立てになっています。

  1. はじめに
  2. 「東美濃の山城を制覇せよ!」について
  3. 「金山越し」について
  4. 講演内容の概要
  5. 最後に
  6. 参考文献
  7. ごましおからの補足

1.はじめに

こんにちは。城郭建造物大好き・ごましおです。

2024年10月6日(日)に行われた金山越し講演会「日本最古の城門と天守」(三浦正幸広島大学名誉教授)に参加しましたので、この講演会のうち「日本最古の城門」の部分、つまり美濃金山城から犬山城を経ずに犬山瑞泉寺へ直接移築された門についてレポートします。

講演会からかなり時間が経ってしまいましたが、「日本最古の城門」については三浦先生の著書にも現時点では記述がないと思われますので、記録に残しておきたいと思います。


2.「東美濃の山城を制覇せよ!」について

2024年10月11日(金)〜2025年2月28日(金)の期間に東美濃歴史街道協議会と攻城団によるタイアップ企画「東美濃の山城を制覇せよ!」が開催されていて、本レポートで取り上げる美濃金山城も対象に含まれています。

ただし、可児市によれば、令和6年度の事業として美濃金山城の城門を移築した犬山瑞泉寺の奥の門(山門ではありません)を金山地区に再移築する(具体的な期間は不明)とのことですので、瑞泉寺にも行かれる場合は注意が必要です。

また、団員ブログでは、toproadさん、たなとすさんから、攻城団ブログでも色々と関連記事が投稿されています。

toproadさん

対象のお城全ての攻城記録が一つの記事としてコンパクトにまとまっています。カモシカとの遭遇があったとか自然豊かですね。

たなとすさん

阿木城、岩村城について「公共交通機関」を利用した攻城の記事です。遠方からでも安心ですね。

美濃金山城について「公共交通機関」を利用した攻城の記事です。蘭丸亭の「野戦なべ定食」がとても美味しそうですね。


3.「金山越し」について

可児市によれば「金山越し」というと関ヶ原の戦いに際して破城された美濃金山城の資材が木曽川の水運を活用し犬山に運ばれ再利用されたという伝承のことを指すようです。


4.講演内容の概要

読みにくいかも知れませんが、講演内容の概要を書き出してみます。

なお、高麗門のことを詳しく知りたい方は、「6.参考文献」の本を読んでみてください。

また、犬山瑞泉寺には移築城門が二つあり、本レポートでは、犬山城からの移築城門を「山門」、そして美濃金山城からの移築城門を「奥の門」とします。

・美濃金山城から移築された瑞泉寺の「奥の門」は高麗門のように見えますが従来の高麗門とは異なります。高麗門は瑞泉寺の「奥の門」ができたときよりも10年から20年ぐらい後にならないと発明されないからです。

資料の5ページ目

・資料の5ページ目の左側の方に写っている写真は美濃金山城から瑞泉寺に移築されたと考えられる「奥の門」です。

・この瑞泉寺の「奥の門」は正面から見た時に縦向きに二本、ちょっと幅が広い柱で特殊な柱である鏡柱という柱が立っています。表にある平らで広い柱ということで鏡柱と言います。これは鏡は表を表していて、さらに鏡のように広くて真っ平ということです。鏡柱の上に一本横棒が通っていて、この横棒のことを冠木と言います。「正面から見ると」鏡柱の上に冠木が通っています。「裏側から見ると」そうではありません。

・屋根瓦は明治時代以後に何度か葺き替えられていて江戸時代の瓦ではありません。

・横から見ると正面から見ていた時の屋根の後ろの方に二つ小さい屋根が出ています。鏡柱の上の屋根の後ろに小さい屋根が2つ付いています。今は扉が壊れてしまってありませんが、扉が付いていた時は正面から見た時の屋根の真下に扉が収まります。扉を開くと両側に出っ張るので開いた時の扉が雨に濡れないようにするために開いた時に屋根の上のところだけに屋根を付けています。これで小さい屋根が全部で三つになり、小さい屋根三つでできた城門のことを普通は高麗門と言います。

・しかし瑞泉寺の「奥の門」は高麗門に近い形式の門になります。この門の形式は名前が付いていません。これは絶滅してしまった門の形式です。寸法は間口が8尺3寸8分(2.54m)で、城門としては8尺とは小さい方です。江戸時代になってからは8尺幅の城門は滅多に使いません。これは規格が少し古い安土桃山時代の城門です。

・美濃金山城は安土桃山時代の城のため、江戸時代のような大きな城門ではなくて小さい城門がいっぱいあったと思われます。美濃金山城の曲輪の入口には全部城門が建っていたと思われますので、その中からこの瑞泉寺の「奥の門」の寸法にぴったり合うような門の跡が多分見つかるだろうと思われます。

・門の扉を開いたところに穴が開きますが、開いた口の部分を開口部と言います。城門と城ではない寺や宮の門と徹底的な違いが一つあります。城門の場合は、開口部がほぼ正方形になるというのが第一条件です。これが正方形にならないような城門はありません。

・瑞泉寺の「奥の門」はほぼ正方形になっていますから城門だということになります。城門は兵士が通りますので、彼らは弓と槍、鉄砲を持っていて、背中に旗差物を差していますが、弓や槍が通る時に絶対にこの高さだと引っかかります。したがって江戸時代の城門としては不適格です。安土桃山時代では城門を潜る時は弓や槍は下げて通るため問題にはなりませんが、江戸時代ではそんなことはしません。

・このため、この城門は犬山城には移築されず、美濃金山城から解体して持ってきましたが結局犬山城には使われずに瑞泉寺にそのまま明け渡してしまった可能性があります。

・一方、瑞泉寺の「山門」となっているのはおそらく美濃金山城から犬山城に移築して、それを江戸時代の中ぐらいに立て直したものが、明治維新になって瑞泉寺の「山門」として移築されています。

・瑞泉寺の「奥の門」には板札が掛かっていますが、猛烈に風蝕(ふうしょく)してしまっていてまったく読めません。板札の風蝕状況から見るとこの板札は多分、300年くらい前に掛かっていたものです。瑞泉寺の和尚様から聞いた話では、二代前の和尚様が仰っていたそうですが、この板札にはこの門は金山から移築した門であるから大事にしろと書いてあったそうです。

・瑞泉寺の「奥の門」の鏡柱で言えることは一本の木でできていてずいぶん細いです。寸法が7寸5分✕5寸5分(大体22cm✕16cmぐらい)しかありません。民家の柱としてはかなり太いですが、城門の柱としては相当に細いです。

・何故こんなに細い柱を使ってあるのかというと材木がなかったからです。16世紀には材木不足でほとんど材木がなくて門の柱である鏡柱は相当太い柱を使わなくてはいけないのですが、それでもなかなか一木で作ることができなかったのです。でも一木で作らなくてはいけないからどうしても細くなってしまうのです。

・ただし正方形の柱だと幅の広い柱が木から取れませんが、長方形にすると少しは広く取れます。したがって細いけれども7寸5分✕5寸5分という中途半端な寸法なんです。鏡柱の長さが正面から見た時と側面から見た時では正面の時の方が広いのです。

・鏡柱の表面ですが、猛烈に風蝕化しています。雨風が当たって表面が減っていくのと木が腐って減っていくのとは話が違っていて木が腐って減っていく場合はボロボロに崩れてしまいます。これは表面が少しずつ減っています。

・この材木だと大体、100年で3mm目減りしますが、この鏡柱は大体表面が1cm近く減っています。1cm近く減っているということは400年くらい経っているようだと思われます。

・大体檜系の柱で300年間風に当てておくと表面がざらざらしてきます。この鏡柱は間違いなく300年以上の風を受けています。風蝕状況から考えて見ると総合的に400年は軽く経っています。ものすごく古い柱だと言えます。

・江戸時代の初めになると材木が決定的に不足してしまいまして城門の鏡柱を一木で採ることが絶対にできなくなります。そこで接柱(はぎばしら)という木を接ぎ合わせて作った柱を使うことになります。

・大体、栗とか杉とか松などのいい加減な木を束ねて使います。いい加減な木を束ねると木が安物ですので格好が悪いです。格好が悪いから表面に綺麗な欅の板を張ります。

・1cm位の薄っぺらい欅の板を張り合わせ、それだけだと格好が悪いのでさらに鉄板を張ります。筋金に鉄板です。

・お城の見方の本に城門の柱や扉に鉄板が打ってあると、これは城門を守るためにあるのだと、敵が攻めてきた時に敵が斧を使って城門の柱や扉を壊そうとした時に、この鉄板によってこれを妨げようとしていると嘘が書いてありますが城門の前で斧を振るってこの木を斬ろうとしていたら絶対に撃ち殺されます。これはそんな悠長なものではなく、継ぎ目を隠すための今のボロ隠しです。

・したがって鉄板の張ってある城門を見たら95%はこのような寄木造りの柱で、これを接柱といいます。姫路城りの門が現存最古の接柱です。関ヶ原の戦いの直前ですがその時に接柱が発明されました。そのせいで関ヶ原の戦いの後の城門はほぼ全て、95%は接柱になっています。

・姫路城の中で接柱になっていない城門はたった二棟だけです。姫路城の中では、はの門と、との一門、両方とも櫓門ですが、そちらの門は一木でできています。一木でできている姫路城の城門は羽柴秀吉が建てた城門です。その他の城門は全て池田輝政が建てていますが全部接柱です。

・瑞泉寺の「奥の門」は一木でできているので風食状況だけでなくものすごく古いということがこれで担保されます。

・ついでに江戸の初めは木がなかったから接柱にしましたが江戸幕府が成立すると日本中で森林の木、山の木を保護するようになるので木がどんどん成長します。大体18世紀になると木が成長して一木の柱が作れるようになりますので日本中にある城門も18世紀以降の門になるとまた一木に戻ります。

・従ってこの美濃金山城の城門が移築されたと考えられる瑞泉寺の「奥の門」は猛烈に古びていて、非常に古い年代で、なおかつ一木であるという、これで関ヶ原以前の城門であることがほぼ確実になります。

・城門のご先祖様を考えてみます。四脚門というのは非常に高級な門で平安時代に発明されていますが平安時代だと大臣以上、すなわち現在のNHK大河ドラマの「光る君へ」では左大臣・右大臣・内大臣以上でないとこの門を使うことができませんでした。非常に高級な門です。時々NHK大河ドラマに出てきます。

・真ん中に扉があって両側に柱が立っています。真ん中に扉があって前と後に柱が立ち、高級な門ですがこれは身分が高くないと絶対に使えません。お城の城門として使おうとしても大臣以上の城主なんてほとんどいません。豊臣秀吉くらいです。

・ということでお城には四脚門は使えないので前と後の両側にあった柱の片方を無くしてしまった。片方が無くなれば格式が低くなるからこれで城門として使えます。

資料の6ページ目

・資料の6ページ目の右上に薬医門と書いてあります。これが現在日本にある城門のご先祖様と言われているものです。特徴はこの左の平面図の扉が付いている柱を見ると長方形です。城門の鏡柱は長方形にするというのが基本中の基本です。この鏡柱、長方形の柱のことを、五平(ごひら)柱と言います。五平というのは長方形という意味です。薬医門が城門のご先祖様になります。

・真ん中の下の図ですが、これは横から見た門です。さっきの四脚門は扉があった柱の前と後に柱が立っていました。前と後に立てると超高級品なので、身分不相応です。このため後だけ控柱があって前の柱がないのです。だから横から見ると前と後が対称ではないのです。前後非対称の建物が薬医門の特徴で四脚門と全然違います。この薬医門が城門のご先祖様と言われている門です。

・薬医門から城門が発展しました。大体16世紀、室町時代後期、戦国時代に薬医門という門が発明されました。要するに格式が低い、身分の低い者の建物の門が薬医門です。これが大体もっぱら城門に使われます。

・鏡柱があって扉があって上に冠木という横棒が揃っていて上に櫓を載せると櫓門と言います。要するに薬医門というのは一階建ての門と二階建ての門の共通のご先祖様です。薬医門の上に櫓を載せると櫓門になります。屋根を載せれば薬医門です。薬医門と櫓門が関ヶ原の戦いの前までにあった二種類の城門です。通常この二種類の城門しか理解されておりませんでした。

資料の7ページ目

・資料の7ページ目の左上の薬医門の横から見た写真を見ると扉が開いていますが、開いた扉は屋根の中、屋根の下に扉があって、ここに見えている長方形の左上に前側の冠木があります。この冠木の後のところにもう一本木が渡っていて、この二つで屋根を支えています。その後側の冠木は丸太なんですが、なぜ丸太かというとこれを角材に整形すると細くなって強度が弱くなってしまいますが、角材に整形するような大木はないので薬医門の後側は丸太で誤魔化すというのが常識です。

・薬医門というのは後側の冠木が仕方がないので丸太で、前側の冠木は角材という形の門です。室町時代から薬医門というのが始まりまして、関ヶ原の戦いまでずっと薬医門しか一階の建物はありませんでした。これに二階の建物、つまり櫓を載せると櫓門になります。

・ところが関ヶ原の戦いの後になると、材木不足になって太い材木ができない。だから鏡柱が接柱になってしまう。もう一つ太い材木が必要なのはこの内側の冠木です。この内側の冠木は門の全長に渡ってきますから、すごく大きな丸太が必要です。

・この丸太がなかなか手に入らないから、これを止めてしまおうとしました。止めてしまえばどうなるかというと、上にあるものが落ちます。

・資料の7ページ目の左下の図を見ると、高麗門が載っています。高麗門と薬医門を比べてみると、何が違うかというと、裏側に冠木がないのです。薬医門は門の裏側に丸太の冠木が来ます。薬医門の丸太を構造的に短くした。高麗門は丸太の梁がないから、したがって薬医門の中で最も太い梁を使う内冠木という丸太が使わなくてすみます。

・屋根を見てみますと薬医門は大きな屋根が掛かっています。高麗門の方は屋根が小さいのが三つに分かれていますから、真ん中の屋根がないので、したがって屋根瓦も少なくなります。材木と瓦が少なくて済みます。

・敵が薬医門の下に入り込んだらどうなるかというと城内の高いところから薬医門の中に入った敵を攻撃しようとすると屋根が邪魔になってしまって、門の中にいる敵を攻撃できません。ところが高麗門は真ん中に屋根がないので、敵が高麗門の中に入っても弓や鉄砲が中に突き抜けますので、敵の居場所がありません。つまり高麗門というのはものすごく性能が良い門であるということが分かります。

・この性能の良い城門が発明された原因は材木不足、そして材料を節約しようということです。

・発明されたのが豊臣秀吉による文禄・慶長の役です。文禄・慶長の役で日本が出兵したのが朝鮮半島ですが、朝鮮半島は当時、高麗と日本では呼んでいました。高麗とは朝鮮半島の遥か昔の王朝の名前です。日本軍が高麗に行った時に発明したから、それで高麗門という名前が付いたのです。高麗門と付いているからといっても朝鮮製ではありません。だから当時、最新型の門なんです。高麗門が発明されると性能が良いということで日本中で高麗門が作られたのです。

・高麗門が発明されましたが、今日本に残っている現存最古の高麗門が7ページ真ん中の写真、姫路城りの門で、慶長4年(1599年)の関ヶ原の戦いの1年前、文禄・慶長の役が終結した後です。日本でいち早くできたのが姫路城りの門です。これが日本の最初の高麗門です。

・姫路城りの門の鏡柱は接柱になっています。慶長4年(1599年)ですので、一木ではありません。接柱になっていて上に冠木という横棒が乗っています。確かに鏡柱の上に冠木が乗っていて冠木の上に屋根が乗っています。

・同じような古い形の門が名古屋城本丸表二の門です。こちらが慶長17年(1612年)です。関ヶ原の戦いの直前に日本で作られ、関ヶ原の戦いの後、日本中で多くの城門が作られますが、その時に性能が良かったので高麗門が一気に使われてそれまでの旧式の薬医門がまったく使われなくなります。これらの高麗門は旧型高麗門です。

・寛永元年(1624年)より後、だから最初の旧型高麗門が発明されてから25年くらい後になってからできたのが新型高麗門です。

・資料の7ページ目の右の写真は新型高麗門の丸亀城大手門です。新型と旧型の違いですが、両方とも鏡柱が立っています。その上に冠木が乗っていますが冠木の上に小さな壁があります。冠木の上に白壁があって屋根が上に乗っています。旧型の方は冠木の上にいきなり屋根が乗っています。冠木の上にいきなり屋根が乗っているのが旧型高麗門です。冠木の上にいきなり屋根が乗るというのは薬医門の形だったものです。薬医門は冠木の上にいきなり屋根が乗っていました。ところが新型の方は鏡柱がそのまま上に伸び上がっています。冠木は本来、旧型だと鏡柱の上に載っていましたが鏡柱に対して冠木が突き刺さっています。鏡柱はそのまま冠木を通して上までずっと伸びていって屋根まで届いています。これが新型の高麗門です。

・新型の高麗門が寛永年間(1624年〜1644年)に発明されると日本中の門が新型高麗門になりました。寛永年間(1624年〜1644年)の新型高麗門を一番最初に使ったのが江戸城です。江戸城に使われた後、日本中で使われたので、現在あちこちのお城で見られる門は全部新型の門です。

・旧型の高麗門は滅多にありません。姫路城と名古屋城と大阪城くらいしかありません。他のお城では特に旧型は出てきません。

・薬医門の後側にあった丸太の内冠木を無くして屋根を小さくして効率よくしたのが高麗門です。

・高麗門というのは旧型と新型があって薬医門とほぼ同じ格好でできたのが旧型で、柱を伸ばしたのが新型です。これが一階建ての城門の変化発展の歴史だったのですが、瑞泉寺に移築されている「奥の門」、すなわち美濃金山城の城門は高麗門の発展の歴史を全く無視したとんでもない門なのです。

資料の8ページ目

・瑞泉寺の「奥の門」は旧型高麗門に似たよう感じですが、超旧型高麗門です。どこが超旧型であるかというとまず旧型の高麗門をチェックしてみないとわかりません。

・資料の8ページ目の右の方は姫路城いの門で旧型高麗門です。正面から見た時が右上の写真です。鏡柱があります。鏡柱の上に冠木が乗っています。裏側を見てみます。裏から見ても鏡柱がずっとあって冠木に当たります。鏡柱の上に冠木が乗っています。これが旧型高麗門です。

・ところが瑞泉寺にある門を見てみると正面は一緒です。鏡柱がずっと上がってきます。冠木に当たります。当たりましたが冠木の上にさらに鏡柱が伸び上がっています。

・先ほどの新型高麗門ですと鏡柱がそのまま上に上がっていって冠木が鏡柱で止まります。上まで行って冠木が鏡柱で止まる、これが新型高麗門です。

・超旧型高麗門は鏡柱の上に冠木が乗っているから旧型高麗門と同じ格好ですが冠木の上にまたさらに鏡柱が伸び上がっています。ありえない格好です。普通このように作れるはずがありません。

・なんでこうなっているのかと裏から見てみたらとんでもないことになっています。冠木は繋がっていますが鏡柱は表側と違って冠木で止まらないでそのまま上にずっと上がっていっています。

・超旧型高麗門は鏡柱と冠木の構造がありえないような門です。

資料の9ページ目

・資料の9ページ目の左半分は扉の付け方の説明です。資料の9ページ目の左上は瑞泉寺の「奥の門」を裏から見たものです。裏側から見えている柱は鏡柱です。上に冠木が乗っています。

・冠木のところに穴が開いている変な部材が付いています。これは藁座という扉を吊る部材です。藁座に扉が嵌まっている状態は資料の9ページ目の左下です。こちらは静岡県掛川市にある横須賀城搦手門です。横須賀城搦手門は本源寺の山門として移築されています。

・この門は鏡柱の上に冠木が乗っているので、旧型の門で、薬医門です。

・この横須賀城搦手門、薬医門の冠木のところになんか変な部材があります。この右下に見えているものが扉の軸です。扉の軸が上にある藁座に突き刺さって回転します。

・このような古い作り方、つまり藁座というものを打ち付けて、そこに開けた穴に扉を突っ込んで回転させるのです。これが関ヶ原の戦い以前の古い城門の作り方です。瑞泉寺の「奥の門」も藁座を打ち付けているので関ヶ原の戦い以前の古い城門です。

・新しいやり方も知っていないと古いやり方の有難さが分かりません。

・資料の9ページ目の中央左は姫路城ろの門です。姫路城ろの門は慶長12年(1607年)頃ぐらいには完成しているだろうと思われます。非常に古い城門、高麗門です。これを見ると扉を肘壺で吊っています。

・右の方に扉があります。扉の横を見ると蟹の鋏みたいな格好をしている八双と言うものがあります。この八双のところに鏡柱があって扉との間に鉄の塊があります。この鉄の塊が肘壺というものです。

・この肘壺を分解して外すと9ページ目中央左下にある絵のようになります。肘壺というのは二つの部品でできていて上の方にあるのが、壺金です。壺金が扉に打ち込んであります。下の方にあるのが肘金です。これは鏡柱の上に掛かります。この肘金の上に芯棒があります。

・肘金の上の芯棒に扉の方に付けてある壺金の穴を差し込むとこれで回転軸になりますからこの回転軸で扉を回転させます。この肘壺は鋼鉄でできています。鍵穴が鋼鉄です。

・これを取り付けた写真が9ページ目中央左上の写真で姫路城ろの門の肘壺です。肘金と壺金を合わせて肘壺と言います。これは鋼鉄でできているので扉を壊そうとして丸太をもってきて突進してきてもびくともしません。

・ところがこの旧式の瑞泉寺の「奥の門」や横須賀城搦手門みたいな門は木の藁座を釘で打って止めているだけです。資料の9ページ目の左下の横須賀城搦手門を見ると、釘が見えます。釘で止まっているだけですので正面から丸太で突くと釘が抜けて扉が吹っ飛びます。

・したがって古いやり方の藁座では城門の防備度が足りません。新型の肘壺になるのは関ヶ原の戦いの後です。超旧型高麗門は藁座で止まっています。ものすごく古いのです。

・資料の9ページ目の中央右下に縦に並んでいる写真が熊本城不明門です。今回の熊本地震でこの門の2階が潰れてしまいましたので現在解体していて見ることができません。これは地震で壊れる前の熊本城不明門です。

・この門で見るべきは扉です。資料の9ページ目の中央右上の写真は正面から見たもので、同右下が裏から見たものです。

・裏から見るとこの城門の扉は縦に太い格子がずらっと並んでいます。表から見ると板があって下半分だけ扉があることが分かります。

・城門の扉の中で最も厳重になると、扉は全部格子でできています。城門でも非常に大きな城門になると、例えば名古屋城とか江戸城に使っているような城門になるとこの格子一本が、太さが江戸城で18cm角になります。18cm角というと普通の農家の大黒柱に相当します。大黒柱みたいな格子がずらっと並んでいるとんでもない城門です。

・さすがに熊本城不明門のはそんなに太くないですが、熊本城不明門でも大体10cmぐらいの太さの格子が並んでいて、ものすごく頑丈です。

・この縦格子が並んでいてこれが骨組みで、正面の下半分だけ板を貼ります。このように作った城門のことを透門(すかしもん)と言います。

・9ページ中央右上に瑞泉寺の門の扉(瑞泉寺の「奥の門」の扉)、透門と書いてあります。透門と言うのは格子で作っていて格子の表面に板を貼ったものです。

・板を貼る時に熊本城を見ると分かるように下の方は板が貼ってありますが上の方は板を貼ってありません。板を貼らないと後にある格子がそのまま上に伸びているからそこに窓みたいなものができます。格子窓みたいです。この格子窓は実はこの扉の部分、骨組みである縦格子がそのまま伸びています。

・瑞泉寺の「奥の門」は現在この扉が壊れてしまっています。9ページ右上の写真を見るとこれが片方の扉の残骸です。この一番上にある上框(うわがまち)がぶっ飛んでしまって格子だけ残っています。

・透門であろうとそうでなかろうと縦格子だけで城門です。城門以外は絶対に縦格子なんか使いません。だから縦格子が付いていること自体で100%城門であることが証明できます。お寺の門はこんなところに格子を入れないです。お寺の場合は薄っぺらい板を付けているだけです。

・瑞泉寺の「奥の門」は縦格子が入っているので城門です。瑞泉寺の「奥の門」の板は今一番てっぺんの上框が無くなっていますが格子は全部残っています。

・9ページ右下の写真は一番上の上框のところです。格子が下まで付いていますが、一枚だけ板が残っています。ここから下、板が無くなっていますが全部板が貼ってあったということが分かります。この扉は下半分が板張りで上半分が格子で、透門になっています。

・透門は古い時代の城門にしか使われないのです。現在日本に残っている透門で現存最古の透門は姫路城との一門です。普通非公開で時々特別公開します。姫路城との一門が羽柴秀吉が建てた門と言われていて、そこに透門の本物の扉が残っています。こちらの方は門が小さいので後ろの格子があまり太くないですが、これは透門です。

・透門は最初の頃の扉にしか使いません。理由は割と簡単で新しくなると、特に櫓門に関してですが、熊本城不明門、二階建ての門では透門になっています。

・古い時代の櫓門は透門にするのですが新しくなるとこの門の扉の上のところに石落しという蓋を開けると下が見えるようになっているものを持っています。

・櫓門の扉の上に石落しを付けるのは関ヶ原の戦いの後からですので、関ヶ原の戦い以前には石落しがありません。石落しがないと門を閉めた状態で敵が門の扉の前にいるのかいないのかが全然見えません。見えないと困るので関ヶ原の戦い以後はここに石落しを付けて蓋を開けるといるかどうかが分かるのです。

・最初の頃は石落しがないから扉の前にいるかどうか分からないのです。そこで一部板を貼らないとここから敵の頭が見えるのでそれで敵が外にいるかどうかが分かります。

・したがって透門とする城門というのは関ヶ原の戦い以前には非常に役に立ったのですが関ヶ原以後になると役に立たなくなるから全部板を貼るようになったのです。

・したがって透門があったらやたらと古い、そうではなかったら新しい扉だと考えられます。

・それで瑞泉寺の「奥の門」ですが透門になっていますからやたらと古いです。ということになると色々な点でこの瑞泉寺にある「奥の門」、美濃金山城から移築された城門というのは日本現存最古の城門だろうということになります。

・犬山城の天守に移築されている美濃金山城天守は森忠政が作っただろうと言えます。瑞泉寺の「奥の門」については森忠政またはお兄さんの森長可が作っただろうと言えますので犬山城天守より一代古い可能性があります。

(なお、美濃金山城のあった可児市に瑞泉寺の「奥の門」が再移築されることを三浦先生は希望されているようだとごましおは受け取りました)

資料の10ページ目

・資料の10ページ目は各務原市に移築されている旧大垣城鉄門になります。元々大垣城本丸の正門だった門です。総鉄板張りですからこれは鉄門です。

・一応これは高麗門になっていますが少々おかしいです。鏡柱に冠木が乗っているからこれは旧型高麗門です。しかし鏡柱の上に少々細くなって鏡柱が上に伸びています。瑞泉寺の「奥の門」と同じ格好をしています。

・裏から見てみると鏡柱があります。上に冠木が付いています。冠木の上に鏡柱が来ます。要するに鏡柱が冠木の中を突き通しています。この門の形は瑞泉寺の「奥の門」と同じで鏡柱の表面に冠木を受けています。この場合は冠木の中を通しています。

・この門の形に一番近いのを探してみるとお寺にはやたらと多い門であって10ページ目の右下にあるのが教王護国寺慶賀門です。鎌倉時代のお寺の門です。柱がずっと伸びてきてそこに冠木があってこの冠木に合っています。この冠木の上に柱がずっと上がって来ます。ほんのちょっとだけ冠木を突き抜けて柱があります。すなわち冠木を突き抜けて柱が上がっていくというのは遥か大昔の平安時代からの造りになります。

・各務原市に移築された大垣城鉄門、それから瑞泉寺の「奥の門」、この二つは遥か大昔の平安時代以来の鏡柱の表面に冠木をくっつけて鏡柱が上に突き抜けてしまう、とんでもなく古い形が残っています。

・高麗門というのは、薬医門がご先祖様、薬医門から新たに到来した旧型の高麗門、さらに年代が下がって新型の高麗門に進化発展するという高麗門の進化発展の歴史がある訳ですが、実は絶滅してしまった門の形態があってそちらは平安時代以来のやり方、門の鏡柱の表面に冠木を付けて鏡柱が突き抜けてしまう、今それが残っているのが各務原市に移築された大垣城鉄門と瑞泉寺の「奥の門」だけです。

・この門の作り方というのは実は後世には一切伝わらず関ヶ原の戦いまでの間に滅亡してしまいました。しかも大垣城と美濃金山城は同じ美濃国にあってかなり近いところにあるので遥か大昔の絶滅してしまった城門の形は美濃国にだけ残っていて、その残りがこの二つの城門です。

・言わば城門のシーラカンス、生ける化石みたいなものが瑞泉寺の「奥の門」であるということで高麗門の進化発展の歴史から完全に逸脱した日本現存最古の城門なのです。

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講演会資料全ページ


5.最後に

可児市によれば、令和6年度の事業として犬山瑞泉寺の「奥の門」を金山地区に移築するとのことです。

超旧型高麗門の話はごましおには難しく、講演会の中で三浦先生から聴衆に向けて「理解できましたか?」とおっしゃられた時も、ごましおはポカーン状態でした。今回のレポートをまとめるに当たって、超旧型高麗門・旧型高麗門・新型高麗門と色々勉強になりました。


6.参考文献

以下は超旧型高麗門以外の高麗門に関する参考文献です。先頭の本が最新本でオススメです。


7.ごましおからの補足

ご参考までに、ごましおが撮影した超旧型高麗門(犬山瑞泉寺の「奥の門」)、旧型高麗門(名古屋城本丸表二の門)、新型高麗門(江戸城田安門高麗門)の表側と裏側から見た写真を掲載します。高麗門の違いが分かりやすい写真とは言えないのが難点です。

超旧型高麗門表側(瑞泉寺の「奥の門」)→鏡柱が冠木を上に突き抜けているケース
超旧型高麗門裏側(瑞泉寺の「奥の門」)→鏡柱が冠木を上に突き抜けているケース
旧型高麗門表側(名古屋城本丸表二の門)→鏡柱が冠木で止まっているケース
旧型高麗門裏側(名古屋城本丸表二の門)→鏡柱が冠木で止まっているケース
新型高麗門表側(江戸城田安門高麗門)→冠木が鏡柱で止まっているケース
新型高麗門裏側(江戸城田安門高麗門)→冠木が鏡柱で止まっているケース

なお、本レポートは以下のレポートの続きです。未読の方は、よろしければご一読ください。

以上です。

最後までお読みいただきありがとうございました。

   
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