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狩野永徳「唐獅子図屏風」について学んできました

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こんにちは、十林寺です。
1月から、よみうりカルチャー大手町スクールで始まった「皇居三の丸尚蔵館連続講座」。
第1回目は、狩野永徳「唐獅子図屏風」と皇居三の丸尚蔵館の桃山絵画がテーマでした。永徳の唐獅子図屏風とひ孫の常信が制作した唐獅子図屏風を同時鑑賞した身としては、この屏風の来歴をどうしても知りたい。単回受講もできるということですぐに申し込みました。
講師は、皇居三の丸尚蔵館 企画課長の戸田浩之氏が担当。永徳の他にも皇居三の丸尚蔵館蔵の桃山絵画について興味あるお話ばかりでしたが、ここでは唐獅子図屏風の来歴を中心にまとめてみました。

当日のレポート

「唐獅子図屏風」
指定:国宝
作者:狩野永徳 天文12年(1543年)~天正18年(1590年)
安土桃山時代の狩野派の絵師。本名は邦信(くにのぶ)、号は永徳。祖父・元信や父・松栄に学び、若くして画才を発揮する。力強い独創的な画風で、織田信長や豊臣秀吉といった時の権力者に重用されたほか、宮中・公家有力寺社などの御用も多く勤め、安土城や大坂城、聚楽第、御所などの障壁画に絵筆を振るった。作品の多くは建物とともに消失したが、現存作品に「洛中洛外図屏風(上杉本)」「聚光院障壁画」「唐獅子図屏風」「檜図屏風」などがある。
制作年:安土桃山時代(16世紀)
員数:6曲1隻
寸法:縦223.6cm、横451.8cm

【唐獅子図屏風】講座会場に特別展示されたレプリカ
  • ライオンをデザイン画したもの。桃山文化を代表する作品。
  • 作者名の署名・印はないが、孫・探幽による紙中極(=鑑定)があり「狩野永徳法印筆」と探幽のサインと印が押されている。この頃に屏風に仕立てられた。
  • 明治21年(1888年)旧萩藩主毛利家より皇室に献上された。この年は明治宮殿が完成した年であり、宮殿の装飾用として献上。

なぜ、唐獅子図屏風が毛利家にあったのか

従来の説として、天正10年(1582年) 秀吉が備中高松城を攻略している時に本能寺の変が起こり、急遽毛利輝元に講和の証として秀吉が陣中で使っていた屏風を贈ったのがこの唐獅子図屏風と言われている。しかし陣屋屏風にしては大きすぎるので今ではこの説は有力ではない。
毛利家には永徳の屏風絵が他にもあったと言われている。毛利家に一気に集まる“何か”があったと推測されるが、詳しいことは分かっていない。
毛利家は、永徳の唐獅子図と“対”になるように、ひ孫の常信に左隻制作を依頼した。左隻も同じく6曲1隻、寸法は縦224.0cm、横453.5cm。常信は曾祖父の永徳をリスペクトしていた。右・左合わせて獅子は3頭。奇数はハレにつながる。だから左隻の唐獅子は1頭にしたのではないか。

唐獅子図屏風の大きさから考える

屏風としては珍しい大きさである。
当時、長押鴨居までの高さは160㎝で、唐獅子図屏風はそれ以上に大きい。屏風の紙継ぎの仕方もおかしい。屏風の折れ畳み部分と紙継ぎがずれている。上下の紙継ぎの幅も中途半端である。構図も木の枝が途中で切れている、唐獅子の足が下椽(かぶち)ギリギリに描かれている。探幽の極め書き箇所(「狩野永徳法印筆」の部分で、これは探幽が鑑定人として永徳が描いたことを認めて記したもの)の金箔の張り方が全体と合っていない、極め書きのために付け足した感がある。
もっと大きな絵だったものを屏風に改変したのか? 調べた人がいた。結果、慶長5年(1600年)建立の園城寺(三井寺)勧学院客殿一の間床の間の壁の大きさと合うということが分かった。ちなみにこの客殿一の間床の間は、狩野光信(永徳の長男)による「瀧図」が描かれている。  

床の間の壁面を外して屏風にした?

西本願寺書院対面所をイメージしてほしい。
(講座ではスライドで、西本願寺書院対面所や園城寺勧学院客殿の床の間壁面に「唐獅子図屏風」をはめ込み合成した絵が映し出されました)
当時、床の間の框の高さは20㎝。権力者(秀吉)が上段の間に座るとちょうど頭の上あたりに獅子の顔
が来て、下段の間にいる家臣を見下ろす感じとなる。
古くから唐獅子図は仏教・仏法の守護者として描かれたが、次第に世俗化し権力者を飾るものへ変化していき、室空間装置として機能していった。そう考えると唐獅子図屏風は、大坂城や聚楽第の大広間床の間の障壁画だった可能性がある。毛利家の所有となった後は一時、毛利家の京都にある屋敷の大広間床の間を飾っていたかもしれない。

余談:唐獅子図屏風にインスパイアされた絵がある?

狩野安信(永徳の孫で探幽の弟)が制作した「竹虎図屏風」(奈良・浄福寺、現在は福井県立美術館寄託)の構図が、唐獅子図屏風に似ている。大きさも縦222cm、横515.6cmとほぼ同じ。
もとは越前松平家が所有していた。越前松平家と毛利家は江戸時代、姻戚関係にあった。もしかしたら松平家の殿が、毛利家の唐獅子図屏風のようなものが欲しいと安信に描かせたのかもしれない。そう考えると非常に面白い(講師考察)。
◎この話を聞いて、狩野養信が文政3年(1820年)に水戸徳川家から「将軍家にある絵を描き写してほしい」と要望を受けたエピソードを思い出しました。大名家のお殿様同士、各地でそんなやりとりが確かにあったかもしれないですね。

まとめ

  • 唐獅子図屏風は、もともとは秀吉ゆかりの建物(大阪城、聚楽第)の床の間障壁画だった可能性が考えられる。権力者が上段の間に座るとちょうど頭の上あたりに獅子の顔がきて、下段の間にいる家臣を見下ろした。権威者を飾る室空間装置として機能した。
  • “何か出来事”があって、大広間などの障壁画が秀吉恩顧の大名家へ譲られた。永徳の唐獅子図は毛利輝元へ。最初は毛利家の京都の屋敷の大広間床の間を飾っていたかもしれない。
  • 唐獅子図を屏風に仕立てた頃に、毛利家に依頼され探幽が紙中極めを書き足した。
  • 唐獅子図屏風と“対”になるように、ひ孫の常信に左隻制作を依頼した。
  • 明治宮殿が完成した年に、旧萩藩主毛利元徳が唐獅子図屏風を献上した。
  • 皇居三の丸尚蔵館蔵となり、国宝に指定され今に至る。

現時点で分かっている唐獅子図屏風の来歴、常信が左隻を制作するに至った経緯も知ることができて大満足です。
あの「まじめな」常信が、曾祖父・永徳の唐獅子図と対となる屏風制作を依頼され高揚感いっぱいで臨んだのか、プレッシャーを感じながら必死に描いたのか想像するだけでも楽しい。今回学んだことをベースにこれからも狩野派関連の情報を収集していこうと思っています。

   
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