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先日東京都永田町の砂防会館でありました #しがの魅力発見セミナー に参加してきました。
第一部の講演で中井均教授による「近江・戦国の城から彦根城へ」を聞き、私自身は地元の人間ながら近江のお城にまたすぐ行きたくなるようなお話しでしたので、ブログにて紹介させていただきます。

はじめに滋賀県では昭和56年(1981年)から10年間にわたり中世城館の悉皆分布調査(しっかいぶんぷちょうさ)がおこなわれ、県内に約1,300ヵ所の城館跡の存在が明らかになったことから話されました。
近江は「湖国」であるとともに「城の国」でありました。戦国時代からの近江のお城の変遷を5つのテーマで解説されました。
甲賀の城(こうかのしろ)
県内の約1,300ヵ所の城館跡のうち、その2割にあたる約248ヵ所の城館が県南の甲賀郡に存在しました。
「同名中」とよばれる同じ苗字を持つ土豪の連立組織「惣」が分布し、戦国時代には共和制の政治体制が存在していました。「大原同名中総与掟条々」には他所の村より小競り合いがあった場合の集合場所や人数を差し向けてお互い助け合うということが掟書に見られるとのことです。
甲賀の城館群の基本構造は一辺30~50mの方形単郭の小規模な構造。村のすぐ裏山にこのような小規模な城館が多数存在しました。
現在でも非常に遺構が残っており、比較的行きやすいお城であると説明されていました。

スライドで甲賀で代表的な新宮支城と新宮城が紹介されていました。
写真は高さ8mにおよぶ大土塁が周囲に巡らされている新宮支城。私自身、実際に土塁の上にも登りその高さに非常に驚かされました。

次に方形単郭で土塁に囲まれた新宮城です。
ただ中井教授は甲賀の城はみんな同じ方形で3~4城見ると飽きてくるとおっしゃってました。確かに二つの城もよく似てて私もまったく同感です。
近江守護・佐々木六角氏の観音寺城
次に佐々木六角氏の居城といえば標高432mの繖山(きぬがさやま)を城域とする巨大な観音寺城。
この城はやたら大きいだけではなく次の2点に注目するともっとお城が楽しめるとのことです。
- 安土城が建つ20年前に寺院勢力による技術で石垣を積んでいた。矢穴と呼ばれる鏨(たがね)で割った技法によって積まれているこの時代では画期的なお城である。
- 戦国時代の山城には考えられない構造 ⇒ 山岳寺院と山城の融合。聖地に築くことで寺を守り仏様に城を守ってもらう。そのため山頂部に曲輪が設けられず寺院があり、本丸が中心部にない。

観音寺城大石垣の写真ですが、矢穴とよばれる箇所が右奥の石垣に見られます。
大石垣は写真を撮る際背後が非常に危ないのでご注意ください。

観音寺山の中心には観音正寺が建っています。その奥に本丸等の曲輪が設けられています。
戦国大名浅井氏の小谷城
標高495.1mの小谷山に京極氏より独立した浅井(あざい)亮政が築いた城。
この城は清水谷(山麓居館)、本丸・大広間(山上居館)、大嶽(山上詰城)の三元構造になっている。また、大広間の発掘調査からわかったことが史実として証明されており、次の点にも着目して訪問すると面白いとのこと。
- 巨大な礎石建物の検出と37,000点(内96%はカワラケ)の出土で日常生活の空間として利用されていた。山上でも生活をしていた痕跡がこのことにより明らかになった。
- 元亀4年(1573年)の信長による小谷城攻め ⇒ 発掘された大広間からは火災の痕跡なし(NHKの大河ドラマで落城=焼失のイメージは嘘)

私もドラマの影響で小谷城は実際燃えていると思っていました(ドラマに感化されやすい)。
織田信長の安土城
織田信長の城郭革命 ⇒ 土の城(軍事的施設)から石の城(軍事+政庁)への視点と、以下の内容に着目してお城をまわるとなぜ信長が安土の地を選んで画期的なお城をたてたのかがわかりやすいとのこと。
- 石垣・天主・瓦の3つの要素から構成される城郭の出現 ⇒ 統一政権の象徴として見せるお城の誕生
- 安土は水陸両用の地 ⇒ 信長は琵琶湖の水上交通を重要視して有力家臣・一族に居城を築かせていた。
- 攻城団の検索で「琵琶湖4城」と入れるとでてきます信長の安土城、明智光秀の坂本城、羽柴秀吉の長浜城、織田信澄の大溝城の4城
- 琵琶湖東岸を意識していた ⇒ なかでも安土山は聖地であった(薬師山の存在)
- 石垣 ⇒ 小牧山城と岐阜城の巨石を用いた石垣の延長線上の技術(信長の尾張・美濃の技術)
- 天主 ⇒ 天正4年(1576年)に開始され、天正7年(1579年)に完成。五重七階(五重六階、地下一階)という高層建築
- 金箔瓦 ⇒ 信長の金箔瓦は瓦当面の凹部に金箔を施すが、秀吉時代になると瓦当面の凸部に金箔が施されるようになる(信長と息子の居城のみ金箔瓦が葺かれる)

写真は安土城黒鉄門の巨石群です。ここに巨石がかなり集中して見応えがあります。

話の流れで、写真の「伝羽柴秀吉邸」や「伝徳川家康邸」について話され、この場所は江戸時代の貞享4年(1687年)に摠見寺(そうけんじ)所有の近江国蒲生郡安土古城図に名前が有名というだけで入れられたとのことです。
のちに滋賀県もその方が都合が良いと説明板まで作成しています。中井教授は滋賀県にクレームをつけたそうですが、少しも聞き入れられずご立腹でした。恐らく織田一族の屋敷だったのではないかと。
戦国の到達点、彦根城
最後に戦国の到達点である彦根城です。
慶長5年(1600年)の関ケ原の合戦の戦功により、井伊直政が上州高崎城より近江佐和山18万石で入封しました。あくまでも佐和山城に入ったことを強調されていました。
- 入封直後より新たな居城の築城構想 ⇒ 直政死去により嫡男・直勝が築城したことを皆さんに知ってほしい。ただ彦根市としては駅前の銅像は初代直政にしたかった。
- 登り石垣 ⇒ 山城の斜面移動を封鎖する5本の登り石垣が彦根城の大きな魅力。朝鮮出兵で築かれた倭城の影響。他に松山城、洲本城、米子城で見られるが彦根城がより多く残っている。その裏話として朝鮮出兵で井伊氏は名護屋城どまりでしたが、井伊の家臣の壱岐対馬の通行手形が残っているそうで、そこで倭城の技術を見てきた可能性は十分にあるとのこと。他3城は朝鮮出兵に出陣した大名で自分の居城に築かせた。
- 彦根山を切断する堀切 ⇒ 太鼓丸と鐘の丸間、西の丸と出曲輪間に巨大な堀切が存在しました。
- 彦根山の山裾を垂直に削った防御施設 ⇒ 敵が山裾から登ることを阻止【山切岸】
- 普請に加えて作事による防御 ⇒ 天秤櫓の両端に構えられた二重櫓【それぞれ向きが違い、大手道と表御門からの登城道を頭上から攻撃できる】
- 天守 ⇒ 京極高次の大津城天守を移築。変化に富んだ屋根構造、最上階・二階に設けられた花頭窓、最上階の高欄廻り縁【城下町に見せるということを意識】

10年も前の写真ですが登り石垣をしっかりと撮っていました。5本もあるのは後で知りました。


天秤櫓の二重櫓の向きが違う意味が今回よく理解できました。

天守の花頭窓が向きによって数が違うとは中々洒落た天守だと思います。
「近江の城を語らずして、日本の城は語れず」が今回の一番のテーマでした。
ぜひ近江のお城にお越しくださいという言葉で講演は締めくくられました。

最後にひこにゃんが登場して、中井教授に滋賀名産のプレゼントを渡して第一部が終了しました(この時だけカメラ撮影が解禁になりました)。
私は彦根城で見て以来、15年ぶりです。歩くの遅いけどかわいい。
終わりに
今回は知っていることばかりだと思って聞きに来ましたが、予想以上に得難い情報も多かったです。
本来首都圏の方々に滋賀の魅力を発信して滋賀県に来てもらうセミナーなので地元民の私が楽しむのもおかしな話ですが、ぜひとも近江のお城をもっとたくさんの方に見てもらいたいと思いブログに記載させていただきました。
ちなみに第二部のさかなクンの講義は親子連れが多かったので、チケットを持っていましたが遠慮してそのまま江戸城を見に行きました。
講演が撮影・録音禁止だったため、簡単なレジメとメモを頼りにスライドで使われたお城の写真を私の古い写真で代用して構成致しました。
ここまで長らくお読みいただきありがとうございます。
追記
ひこにゃんが帰り際に前に来たので思わずパシャリ(前に人がいたので少し加工しています)。
