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幕末維新の和歌山城とその周辺を巡る!

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みなさんこんにちは、黒まめです。

わかやま歴史館2階歴史展示室では2月3日(火)から冬の企画展示「田中善蔵-追廻門外に散った紀州藩の改革者ー」が開催されていますが、それに関連して行われたツアー「幕末維新の和歌山城とその周辺を巡る!」に参加しました。

その様子を報告したいと思います。

当日の様子

これは、資料としていただいた地図ですが、これに沿って報告していきたいと思います。

(1)旧大村家住宅長屋門

ツアーのスタートは、岡口門近くの岡公園に移築された「旧大村家住宅長屋門」です。

13時スタートのツアーで、和歌山城の南に位置する門は思いっきり逆光で白くぼけた写真ですみません。

この長屋門は、もと紀州藩士の大村弥兵衛家のもので江戸時代末期の建築と考えられます。

大村家は、駿河から頼宣に付き従ってきたいわゆる「駿河越え」の古参の家臣で、禄高300石ほどの中級武士であったようです。

10代藩主・徳川治宝(はるとみ)の側近として仕えた弥兵衛のころに、石高が300石から800石までアップするという出世をとげたそうです。

ワンマン治宝の権力が透けて見えるような気がします。

治宝は、権威と美意識を重視するゆえか、武家屋敷の外観にも海鼠壁(なまこかべ)を用いることを命じたそうです。

家屋側は、自由だったようです。

当時は、城の西側にあたる東坂ノ上丁に構えられていましたが、明治30年(1897年)頃に所有者が変わり堀止東に移築され、近年まで住居として使われていました。

これが、堀止東にあったころの貴重な写真です。

今日は、長屋門の内部も公開してくれ、部屋に展示している写真も見ることができました。

これは長屋門家屋側の左部分ですが、堀止東に移築された際に増築された部分だそうです。

中には、台所や便所も完備されています。都会のワンルームより広いかも……。

その後、解体の危機に瀕し、紀州藩士の屋敷の遺構として唯一残る貴重なもので、絶対残すべきものとして和歌山県が買い取り、現在の位置に移築したのだそうです。今は、和歌山市に所有権が移り、和歌山城整備企画課が管理しているそうです。

今回のテーマには、直接かかわりはないのですが、江戸末期の貴重な建物として紹介してくれました。

移築にあたっては、当時の部材(礎石、木材、瓦など)をできるだけ利用したということですが、軒丸瓦は、大村家の家紋桔梗紋(オリジナル)と巴紋(後に足したもの)が混じっています。

(2)岡山学習館(藩校)跡

旧大村家長屋門から道を渡り南の丸横を通って、岡山学習館跡まで向かいます。

道沿いの一段下がった部分は、現在はツツジ園となっていますが、もとは南の丸の堀でした。

さらに、西に進むと今は駐車場へと続く不明門跡があり、その角には南の丸高櫓台の石垣が聳え立っています。

南側に目を転じると、小高い丘の上に「奥山稲荷社」が見えます。稲荷社の近くには吉宗が整備した時鐘堂(じしょうどう)が当時のままに残されています。

奥山稲荷社、時鐘堂、県立博物館・近代美術館のあたりには、戦国時代に畠山氏が築き、和歌山城のもととなったという紀伊岡山城がありました。

小高くなっているので、和歌山城の天守が丸見えです。江戸時代は一般庶民は立ち入り禁止になっていたのもうなづけます。

これは、現在の和歌山大学教育学部付属小学校・附属中学校の校門ですが、まさにこの場所に安政3年(1856年)~万延元年(1860年)にかけて、岡山文武場が設置されました。

慶応2年(1866年)には、伝法(現伝法橋南ノ丁あたりか?)にあった学習館が併合され、岡山学習館となり、幕末維新期の紀州藩における教育機関として機能しました。

嘉永年間(1848年~1855年)に、今回のツアーの主役・田中善蔵は学習館の授読(先生)として、仕事をしていました。

明治2年(1869年)には、藩政改革の一環として農民、町民にも門戸が開かれました。

それ以来、この地は教育用地として使われてきました。私の母校の和歌山大学教育学部も昭和62年(1985年)に移転するまではここにあり、この校門をくぐって通いました。

連綿と藩校の流れを汲んでいるのだという話を聞き、紀州の殿様が少し身近に感じられました。

今でも藩政時代の貴重な文書が和歌山大学の図書館に保存されているそうです(←初耳!)。

(3)紀州藩家老久野家上屋敷跡

先ほどの校門から北へ向かいました。

和歌山城を東に見ています。

木が生えていてよくわかりませんが、ここからの和歌山城は右に大天守、左に乾櫓、間に二の門櫓が見える、かっこいいスポットです。

藩校跡は、この写真の右側の奥になります。

「真砂丁」の地名は、このあたりが砂丘だったことに由来するようです。

この石垣は、紀州藩家老・久野家の上屋敷のものであろうといわれています。

現在の和歌山県庁南別館の北、和歌山県民文化会館の東にあたります。

所々コンクリートで補強されていますが、中央下の大きな石は、その表面加工(はつり仕上げ)の様子から当時ものだと思われます。

久野家は、紀州藩家老のうちで4番手(1安藤家、2水野家、3三浦家)で、屋敷は現在の和歌山県庁、和歌山県民文化会館、和歌山県警を含み、和歌山城下の武家屋敷の中で最大級の面積を誇りました。

「若山城下御絵図」から、屋敷の南側には横矢がかりといった防御施設が確認されることから、和歌山城の西側を守る出城のような機能を持っていた可能性も考えられるそうです。

幕末の藩政改革において、当時の家老・久野純固(くの すみかた)は田中善蔵と激しく対立したそうです。

ここは、県民文化会館の東側の駐車場ですが、この駐車場の東側に先ほどの石垣が残っています。

こんな無造作に車を置いているところに、貴重な石垣が残っていたなんて、初耳すぎて驚きです!

(4)扇之芝

驚きの石垣から歩道橋を渡り、和歌山城の近くへと戻っていく途中です。

白く見えているのが、現在整備中の扇之芝です。

少し向きを変えてみると、右のほうにカーブして見えるのが初めに通ってきた南の丸横の道「三年坂」です。

本来の扇之芝は、三年坂の辺りを扇の要に見立て、交差点の真ん中あたりまで広がった扇形だったそうです。

藩士たちは、左側のほうで乗馬の稽古、右側では弓矢の稽古に励んでいたそうです。ここでは、藩士たちの稽古の様子を庶民たちが見学する憩いの場でもあったそうです。

庶民たちは、もちろん城内へは足を踏み入れることはできませんが、この扇ノ芝は城内と城外を結ぶ結節点のようなところであったようです。

意外と開かれた感じだったのかなと思いました。

(5)追廻門/田中善蔵暗殺現場

これは、追廻門よりほんの少し南の石垣です。

このあたりで、田中善蔵は暗殺されたのだそうです。

幕末の紀州藩は、「長州征伐」での出費、「いろは丸事件」での賠償金などの度重なる大きな出費によりひっ迫していました。

「いろは丸事件」は、坂本龍馬率いる海援隊の船「いろは丸」と紀州藩の「明光丸」との衝突事件を指します。
このとき、交渉術に長けた坂本龍馬が「万国公法」を持ち出し、さらに貴重な積み荷を満載していたとの主張から、紀州藩は8万両の賠償金を支払うことになり、藩財政を圧迫することになりました。「非は、いろは丸側にあった」とする説や「積み荷は満載されていなかった」という説もあり、真相は今となっては闇の中ですが……。

大規模な藩政改革に取り組んだのが、津田出(つだ いずる)とそのもとで財政立て直しを図った田中善蔵です。

田中善蔵は藩士の禄(給与)を大幅に削減する案を出しましたが、それによって多くの藩士と対立しました。

暗殺事件の前日、家老の久野純固と田中善蔵は、給与削減の策をめぐって激しく口論したと伝わります。久野からすると、「由緒正しい自分に対し、下級武士の分際で」という気持ちもあったのかと想像します。

田中善蔵と激しく対立した久野純固

口論の翌日、慶応3年(1867年)11月12日早朝、いつものように追廻門を通って砂の丸の藩庁に出仕しようとした田中善蔵は、5人の藩士によって殺害されました。

田中善蔵は、当時43歳でした。

追廻門の奥に見える石垣の前には番所があったそうです。

後に番所役人は、「門外が騒がしいので、見に行ってみると首無し死体があり、殺害者らしき人影はもうなかった」と語っています(南葵徳川史より)。

番所役人の言から、当時門は閉まっていたと考えられます。

また、殺害直後の現場を見た陸奥宗光のいとこ岡崎邦輔(おかざき くにすけ)の書簡には、「首は無く、持ち去られていた。白いシャツを着ていた」と書かれているそうです。

これは、新発見の田中善蔵肖像画です。

令和6年(2024年)和歌山市に寄贈されたこの肖像画は、田中善蔵の子孫の方が保存していたもので、この肖像画の発見が今回の企画展のきっかけとなったそうです。

暗殺者の5人は家老の久野家に出頭しましたが、犯罪者というよりは無茶苦茶な改革を進める人物を消し去った英雄として、すぐには処分されにくい状況だったといいます。

これは、後に田中善蔵の死を悼む紀州藩士によって建てられた「尽忠之碑(じんちゅうのひ)」です。

もと秋葉山にあったものを、事件から約100年後の昭和44年(1969年)現場であるこの地に移されたものです。

ここで、田中善蔵の子孫、暗殺者5人の子孫が寄って供養を営み、事件から100年の後に和解したのだそうです。

(6)砂の丸

公的な政治の場と大名の生活の場を分け、大名が政治に関わることを減らす「家政分離」政策の一環で、それまで政庁が置かれていた二の丸から、砂の丸に政庁が移されました。

幕末から明治にかけて藩政改革の指揮をとった津田出は、ここに居宅を構えて財政再建、日本初の徴兵制の施行など紀州藩の近代化に向けて政務にいそしんでいたのだそうです。

津田出は、後に明治新政府に採用され、大蔵少輔、陸軍少将などを歴任しました。

最後に

紀州の「桜田門外の変」とも言える「田中善蔵暗殺事件」のことを、現地を訪ねることでより深く知れてよかったです。

この和歌山の地にも幕末の嵐は確かに吹き荒れたんだなと感慨深いものがありました。

このブログで、和歌山の幕末にも思いを馳せていただけたら幸いです。

ここまで、読んでくださりありがとうございました。

   
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