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大和の城郭と考古学

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みなさん、こんにちは、黒まめです。

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館で開かれている「令和7年度 特別陳列 大和の城郭と考古学」を観てきたので、報告します。

この特別陳列には是非行ってみたいと狙っていたのですが、うまく列品解説に合わせて計画することができ、ラッキーでした。

第1章 高安城と古代宮都

高安城は「白村江の戦い」で敗れた天智天皇が、唐・新羅連合軍に対する防衛策として近畿以西に築いた古代山城の一つです。

「高安城を守る会」が発見した6棟の礎石建物跡のうち、2号、3号の礎石建物の発掘調査が行われ、その結果発見された土器が展示されていました。

展示されていた土器は8世紀前半ごろのもので、日本書紀に記された築城年667年から、続日本紀に記された廃城年701年の間にあてはまらないことがわかりました。

日本書紀、続日本紀に記された高安城の姿は、いまだにベールに包まれたままなのだそうです。

高安城の東山麓には椿井・西宮遺跡や三ツ池遺跡があります。

発見された遺物より、これらの遺跡は、官衙か、大和川から竜田川をさかのぼった最初の船着き場とする説があります。

もしかすると、和銅5年(712年)高安城へ行幸した元明天皇は、この辺りから高安城へ上がったかもしれません。想像すると、ロマンが溢れますね。

第2章 大和の中の中世城館

大和では、中近世城館が約560か所知られています。

中世の大和は、興福寺の力が強く、興福寺の配下である宗徒(興福寺僧)・国民(春日社人)と呼ばれる国人衆が各地に割拠していました。

宗徒は、国中(くんなか)と呼ばれる奈良盆地の北部に多く、筒井氏や古市(ふるいち/ふるち)氏など、また国民は中南部に多く、越智氏や十市(とおち)氏、箸尾(はしお)氏などが知られています。

古市城山遺跡

古市氏の城として知られますが、室町時代の火葬墓を破壊して築城されたそうです。

現代人の意識からすると、ちょっと信じられない気がします。

鬼薗山城(きおんさんじょう)

現在は、奈良ホテルの敷地になっていて、遺構はほぼ見ることができないようですが、丘陵西端の発掘調査では、堀切、曲輪、堀などが確認されたそうです。

筒井氏と越智氏との間で取ったり取られたりの激しい攻防があったようですが、今はそんなことは想像もできない高級ホテルの優雅なたたずまいとなっています。

筒井城

筒井城は、その名の通り筒井氏の城ですが、松永久秀と筒井順慶との間で何度も攻防戦が繰り返されたようです。

最終的には、元亀2年(1571年)の辰市合戦で筒井順慶が勝ち、筒井氏の支配下に戻りました。

筒井城からは瓦の出土がとても少なかったそうです。もともと瓦は部分的にしか使われていなかったのか、破城にともない大和郡山城へと移されたのか、今もって謎です。

立野城

永禄年間(1558年~1570年)には、信貴山城の出城として機能していたと考えられます。

主廓と思われる廓からは、瓦の出土量も多く、屋根全体に瓦を葺いた礎石建物が存在していたと考えられます。

しかし、瓦は16世紀前半の法隆寺で使用されていた軒平瓦と同范(どうはん)と思われ、他所の寺院の瓦を再利用した可能性が高いそうです。

同笵:
青銅器や瓦などの製作にまったく同じ鋳型(笵・いがた)が使用されたことを指す専門用語

信貴山城

発掘調査はされていませんが、表面採集された遺物の中には、茶臼が含まれていました。

「平蜘蛛の茶釜とともに爆死した」という松永久秀の伝説は、ちょっと信じられませんが、茶の湯に親しんでいたことは間違いなさそうです。

多聞城

宣教師ルイス・デ・アルメイダの書簡に「私が見たうち、もっとも美しく快い瓦」と評された見事な瓦が葺かれていたようです。

瓦は大きく分けて
①大和の寺院と同范関係にあるもの
②大和の寺院以外と同范関係にあるもの
③多聞城オリジナル
の3つのグループに分けられます。

①は、東大寺、興福寺、海龍王寺、法隆寺など南都およびその周辺の寺院と同范で、多聞城築城より古いものが多いことから、立野城同様、再利用ではないかと考えられます。

②は、堺環濠都市遺跡と同范で、当時堺は松永久秀の支配下にあったことから、支配下にあった堺から運搬させた可能性が高いと考えられます。

③は、多聞城以外から出土が確認されておらず、出土量も多いことから、多聞城築城に際して新規に生産された瓦であると考えられます。

多聞城築城以前の眉間寺などの寺院に関わる遺物と考えられる土製の小型建物は、軒下の蟇股、垂木、隅木下の邪鬼など非常に精緻に表現されていて興味深かったです。

宇陀三将の城

宇陀を代表する国人領主、秋山氏、澤氏、芳野氏は、それぞれ秋山城、澤城、芳野城を築き、その麓に居館を構えていました。

澤氏の居城、澤城は、松永久秀の大和支配に伴い、永禄3年(1560年)には高山友照(飛騨守図書)が城主となり、その嫡男・高山右近も少年期をここで過ごし、城内の教会で洗礼を受けたそうです。

意外なつながりにびっくりしました。

秋山城は、城主が何人も変わり、関ヶ原の後、当時の城主・多賀秀種(たが ひでたね)が西軍に属していたため改易となり、代わって福島高晴(ふくしま たかはる)が城主となり、松山城と改名しました。

しかし、福島高晴は慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣方に内通したという嫌疑で改易となり、城は破却されました。

第3章 秀長の郡山城入城と大和

大和から伊賀へ国替えになった筒井氏(筒井順慶の後継、筒井定次)に代わり、和泉・紀伊国の統治を任されていた豊臣秀長が大和国を与えられ郡山城に入城しました。

秀長の支配下において、大和国では大和郡山城を中心に高取城と宇陀松山城を支城とする三城体制がとられました。

大和郡山城

大和郡山城では、金箔瓦が出土する可能性が高いといわれていましたが、長らく発見されませんでした。

しかし、平成26~28年度(2014~2016年)に大和郡山市が実施した天守台の発掘調査で金箔瓦が初めて出土しました。

また、令和2年度(2020年)の二ノ丸における橿原考古学研究所の発掘調査でも金箔が押された軒瓦が多数出土しました。

その金箔瓦が今回の目玉展示の一つだそうです。

軒平瓦と巴紋の軒丸瓦が出品されていました。かすかに黄味がかった色がみえました。

さらに、そのうちの1点の巴紋の軒丸瓦は、大坂城出土の軒丸瓦と同范の可能性が高いそうです。

豊臣兄弟の関係性を表すものとして注目ですね。

宇陀松山城

宇陀松山城は、三城体制において、東国に対する最前線の城であったと考えられます。

宇陀松山城からは、桐紋が立体的に施された巨大な鬼瓦、雷神が飛び出てきそうな鬼瓦など視覚的に圧倒されそうな鬼瓦が出土しています。それだけの建物があったということなのでしょう。

また、発掘調査により、前述の福島高晴の改易にともなう破城の様相が明らかになりました。破城の作法ともいうべき破城のやりかたなどがわかってきたのです。

破城は、石垣のある個所すべてに及んでいるようですが、見える場所は徹底的に、あまり見えない場所は程よく、というあたりが調査で見えてきました。非常に興味深いです。
破城には見せしめの意味もあったのか、それとも、「もうこの城は使えないよ」と知らしめるためなのか、いろいろ想像するのは楽しいです。

高取城

高取城の歴史は、南朝に属した越智邦澄(おち くにずみ)が14世紀中ごろ築城したときまでさかのぼります。

天正8年(1580年)には廃城となりますが、後に筒井順慶が郡山城に入るにあたり、その詰城として復興されます。

その後、秀長の命を受けた本多氏により、本格的な近世城郭としての築城が始まりました。

瓦が多く展示されていましたが、そのほとんどが植村氏のものだったようです。

瓦の一部に土田吉兵衛(つったきちべえ)の刻印があり、さらに鯱瓦にも同じ刻印があったことにスポットをあてていました。

鯱瓦には元禄8年(1695年)8月と日付も記されていました。

これは、元禄8年に土田(つった)村(現大淀町土田)に住む吉兵衛という瓦職人が作ったものだということです。刻印を彫り込むぐらいなので、腕の良い職人だったのでしょう。

その当時の人物が浮かび上がるような史料は、想像力をかきたてますね。

第4章 城下町のにぎわい

大和では、長らく興福寺を中心とする南都が、京都や堺とならぶ経済都市でした。

その南都の富を吸い上げ、経済の中心を奈良(南都)から郡山へ移すのが大和統治の課題であったといえます。

秀長も、郡山を経済の中心に据えるべく、かなり強引なやり方を推し進めていきました。

奈良での味噌・酒・材木などの商売を禁じ、大和郡山で商売をさせたり、奈良借(ならかし)という強制的な金子の貸付などを行ったりして、大和郡山を優遇しました。

江戸時代には、豊臣政権下で苦しめられた奈良は幕府直轄地となり奈良奉行が置かれ、郡山は郡山藩の城下町として、それぞれ独自に発展していきました。

寺内町から商工業都市として発展していた今井町も、17世紀後半には幕府直轄地となり、大名を相手にする金融業も生まれるなど繫栄しました。

まとめ

奈良県は、隣県でもあり、悠久の歴史を感じさせる場所として、私にとってはとても身近で大好きな所です。でも城郭に目を向けた歴史については、初めて知ることがとても多く勉強になりました。

大和郡山は、私たちから見ると奈良の一部ですが、奈良とは興福寺を中心とする南都のことだということも、今回初めて知りました。

奈良借も「秀長さんそんなに城下の人を苦しめてどうするの?」という認識だったのですが、今回の特別陳列で、何を意図していたのかやっとわかりました。

知らない城郭もたくさん出てきて驚いています。

博物館では写真撮影がほぼOKだったのですが、SNSなどへ挙げるのがダメということで、陳列物の写真を出すことは控えました。城郭については、自分が撮影した写真を使っています。

どこまで、伝えられるか不安ですが、ご了承ください。

   
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