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みなさんこんにちは、黒まめです。
「今年よかった城」ということで、悩んだ末に選んだのは、根福寺城です。私有地なのですが、地権者の方とつながることができ、以前から「攻城してみたい」と思っていた根福寺城攻城の機会を得ました。本当に素晴らしい山城で、これはブログでみなさんにぜひ紹介したいと思った次第です。
地権者の方は、「自分のプライベート空間にゲストを招く」という意味合いも込め、あえて案内板などは設置していないそうです。なので、私もあえて、攻城ルートは記しません。私が見て感動した、みなさんにも見てもらいたいなと思った見どころなどを書き綴っていきたいと思います。
殿の墓
「殿の墓」とは、野田山城(根福寺城の前身)の城主、松浦”肥前守”守(まつら ひぜんのかみ まもる)のものと伝わる五輪塔を浮き彫りにした墓石です。年代が合わないなどの謎も秘めていますが、まずは、これらの五輪塔群に挨拶をしてから、攻城したいと思います。
案内板
登城口前の道沿いには、貝塚市教育委員会が掲げた案内板があります。この案内板は、教育委員会と地権者の方とが相談して、内容を決めたそうです。
さて、ここまでは道沿いにあり、だれでも見学が可能ですが、ここからいよいよ城域にお邪魔していきます。
深い……二重堀切
写真で見てもわかるように、今でもかなり深い二重堀切があります。城外側の堀切が竪堀につながり、その竪堀が城内側の堀切につながっているので、あらかじめ決められた道を進んできたところを城内側からの攻撃にさらされる、という仕組みになっているそうです。この写真は城内側の堀切で、向かって左の城内から、一斉攻撃を受けるポイントです。妄想すると恐怖が襲ってきそうです。
イチ推し! 畝状竪堀群
「七つ砦」と呼ばれる7条の竪堀と、そのすぐ近くに2条の竪堀が落ちています。これは、そのうちの1条です。七つ砦の竪堀は両端2条がふもとまで続き、間の5条は少し短めになっているそうです。これらの竪堀はかなりの急斜面に施されているのですが、さらにその上に崖と言ってもよいぐらいの急斜面が続くので、ここから攻め上ってくる敵はいなそうです。「見せるため」の畝状竪堀群だったのではないかとも想像できます。「権威を見せつける」または「抑止力」としての役割を担っていたのかもしれません。
すごい土木量、大門跡
尾根を切り通して、大きな門が建てられていた場所です。写真には写っていませんが、左の方には、かなり大きな礎石(70cm四方ぐらい)が遺されています。ここから、東の城にも西の城にも行けます。大きな礎石は、明らかに城の山にある石ではなく、城外から運び込まれた砂岩だそうです。
広い! 絶景! 千畳敷
千畳敷は、根福寺城最大の曲輪で、西には海が臨め(上)、東には高城山の狼煙場(中、中央付近のこんもりとした所が高城山)を見ることができます。三好氏は、海を臨める城を持っていなかったため、ここを欲したといわれています。実際に三好氏のものだったのではないかという推測もされていますが、裏付ける史料が無く、定かではありません。秀吉勢に対抗した根来衆の出城のひとつ、千石堀城も臨めます。また、根来寺との間に横たわる葛城山系の高城山に狼煙場を築くことで、根来寺との素早い連携を可能にしたと想像できます。下は千畳敷でくつろぐ地権者の方のワンちゃんです。この大きな山城をドッグランにして走り回る、ワイルドなトイプードルです。
ちょっとした、プチ見どころ
もともと、城内には生えていなかった矢竹。戦国の世に植えられ、今も城内各所で見られます。
この写真は、城とは直接関係ありませんが、江戸時代に営まれた茶畑の石積みだそうです。寒暖差があり、良いお茶が栽培されていたようで、岸和田藩の岡部氏にも納入していた記録が残っているそうです。御用達だったのですね。
その頃の名残のお茶の木が種子を飛ばし、野生化しているものです。
まとめ
「ワンちゃん」と「プチ見どころ」はほんのオマケですが、二重堀切や畝状竪堀群など、城好きがよだれをたらしそうな遺構が良好に残っている、本当に素晴らしい山城です。誰がどんな目的で、どのようにして、こんな巨大な山城が築かれたのか、まだまだ謎の多い根福寺城について、興味が尽きません。また、根来衆については地元でありながらあまり知らなかったので、紀州攻めの前の根来衆の動向などをちょっと調べてみたいなとも思いました。