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はじめに
こんにちは。武蔵國ねり丸郡の住人、ねこち丸です。
2025年は、早期退職に伴い多くの変化があった年でした。
入団は2023年11月ですが、今年4月からアクティブになったので、城好きのみならず多くの観光客が訪問しているお城にも、まだそれほど行けておりません。100名城にも「今年はじめて訪問したお城」が数多くあります。
迷いましたが、2025年の攻城目標に掲げた5城の中から、ガイドツアーに参加した観音寺城を選びました。
必要な写真がなかったり、ガイドさんの説明も聞き取れなかったりで不完全レポートですが、お付き合いください(かなり長いです)。
経緯と準備
そもそもは、1月に安土城へ行くついでに寄るつもりでしたが、時間が足りず諦めました。
3月にも滋賀に行きましたが天候が悪く、夏は暑くて動けず、晩秋かなと思っていた折、攻城団で「北近江の戦国史シンポジウム」の案内を見つけ、そちらに参加しました。
いただいた資料の中に、安土城考古博物館主催の観音寺城ガイドツアー情報があったのです。
ハイキングコースがあるので一人でも攻城はできそうでしたが、学芸員さんやガイドさんに案内していただけるなら、その方がありがたい。
お城についても歴史に関しても「学び中」で、お城好きなら「常識」でも「知らない」ことが多々あります。
その後、熊騒ぎも起きましたし、このツアーに参加できなければ、今年の攻城は諦めたことでしょう。
10月に越前若狭お城フェスに行き、講演者のお一人、新谷和之氏の『図説 六角氏と観音寺城』を購入。
少しばかり六角氏と観音寺城やその周辺について知識を入れました。
断片的でも、縄張り図の曲輪(丸)名が「伝」であること等、知っておいて良かったです。
雨天中止でしたが、数日前から11月23日の天候は晴れマークで一安心。
ただ、3連休の紅葉時期だったからか近くのホテルが軒並み満員御礼で、前日は名古屋に泊まり、当日朝、安土へ向かいました。
いざ、観音寺城

安土駅から集合場所の安土城考古博物館まで、徒歩で30分程度かかります。
タクシーも停まっていましたが、時間の余裕もあったので、ウォーミングアップを兼ねて歩きました。
近づいてくる建物とその後ろにそびえる繖山(きぬがさやま)を眺めながら、気持ちが高まっていきます。

博物館に入ると、看板が出ていました。キャラのまめのぶくんは、展示会場入り口を指しています。
受付を済ませ、参加料2,000円(入山料、博物館観覧料、保険料含む)を支払い、集合時間まで博物館の展示を眺めました。
観音寺城のジオラマもあったので、どんなコースを歩くのかなと考えてみたり。
10時少し前に縄張り図をいただき、ガイド役の方を含め3名の学芸員さんが挨拶をされ、参加者15人程で出発。
参加者の自己紹介等なかったので正確にはわかりませんが、2人参加が数組、他は1人参加。
年齢層はやや高めでしたが、若い方もおられました。男女比は3:1くらい。
歩いていく順番指示はなかったので、なんとなく一列になり繖山を登っていきます。

縄張り図は観音寺城域のみで、博物館からの登城ルートは書かれていません。
また、後半、赤い散策路として記載されていない道も歩き、ガイドツアーならではのルート設定でした。
「近江風土記の丘へ」と書かれた方面から登り、繖山頂上を越えて「伝沢田丸」を目指しました。
三国岩のあたりから大土塁(尾根道)を歩き、広めの伝三井丸、伝伊庭丸を抜けて、伝目賀田丸まで。
そこから戻る方向で別の道(祀られた巨岩が多く見られる)を通り、観音正寺でお昼とトイレ休憩。
観音正寺から、伝三ノ丸を抜けて伝池田丸、女郎岩と大石垣がある場所へ直接ではなく、ぐるりと回って行きました。
そこから埋門、伝木村丸を通り、来た道とは別の道で伝三ノ丸まで戻り、大石段を上り、伝本丸へ。
伝本丸からは、長い階段含めひたすら下って桑実寺を見学し、博物館へ戻りました。
ガイドさんによれば「大手道は林の中を進むので、眺めが良くない。このコースなら、途中で景色を見られる場所があるから」とのことでした。

段差の大きな階段含め、岩や木の根、枯葉も積もった上り道を息を弾ませながら歩きました。
最初は少しペースが早かったようです。
生い茂る木々を伐採して景色が見えるようになった中腹の地点で一休み。
写真が撮れる場所は狭く、譲り合って撮影。左端が、八幡山城がある八幡山です。
拡大すると、ロープウェー山頂駅と思われる「白い部分」がわかると思います。
右側の紅葉樹にだいぶ隠れている深緑のこんもり部分が安土城、水色は西の湖です。
<ガイドさんの話>
観音寺城域は、段々畑になっていた場所もある
30年前に火事があり、それからしばらくは禿山だったので、登りながら景色が良く見えた
今は草木が茂ってしまったので、視界がよくない、広大なので伐採も大変
市民の声をあげてもらえれば予算がとれるかも知れないので、皆様よろしくお願いします
市民ではない観光客の「ご意見メール」でも、目を通してもらえるでしょうか。

あちこちに、石垣が崩れたような、大きな石が集積しており周囲には木が生い茂っている場所がありました。
階段部分も土の道にも岩や石が散見され、「土と植物だけ」の山道とは足裏の感触が違います。
元は岩山だからと教わりました(西日本には岩山を用いた山城が多いと参加者の数名が口々に仰る)。
<ガイドさんの話>
石垣に積む石は、どんな石でも良いわけではない
観音寺城には巨石が多く、もとは一つの巨石を砕いたり切ったりして石垣に使用している
信仰の対象になっている巨石もあって、後で通ります
崩れている石垣は、明治に作られたものや、禿山を維持するために作られたものもある
遺構がすべて六角氏時代のものではありません
曲輪も1,000くらいあったという説があるが、ちょっと疑わしい
田畑跡で平らになっている場所もあるし「城域にあるから全てお城の遺構」とは言えない

11時過ぎ、山頂に到着しましたが、見晴らしが悪い場所で、頂上なのに残念です。
山頂に至る少し手前に安土城エリア全体が望めるスポットがありましたが、木が邪魔で道が狭く撮影は断念。
団体行動時の写真撮影は難しい点もありますね。
ガイドさん曰く「市民の声を〜(以下同文)」。

何? とお思いでしょうが、参加者も「え? どこが?」という顔になりました。
手前の木の向こう側一体が伝沢田丸だそうです。
<ガイドさんの話>
現在、このルートに隣接する「丸」は大部分が藪化していて入ることは困難
昭和40年代には見渡せたが、植生も松から杉檜になり、今は平らな部分がはっきりとはわからない
隙間から覗いて、削平地、平坦地を想像してみてください
伝沢田丸に関しては、沢田さんは六角氏の家臣にはいない(証拠がない)ので、他の丸より存在が更に疑わしい
元々寺院があった場所を増改築したかも知れず、曲輪(丸)ですらないかも知れない(個人的見解です)

三国岩周辺は、石垣遺構がはっきり見えました。
「わー石垣!」と騒ぐ参加者に「こちら側は規模も小さく、序の口です」とガイドさん。
隣の市にお住まいで、何度も来ているという年配男性は「こんなもんじゃないよ」とニヤニヤ。
写真等で「もっとすごい石垣がたくさんある」とわかっていても、「初めて入った城域」で「実物」を目の前にすると歓声をあげてしまいます。

大土塁の上を歩いて進みます。歩きながら見下ろした写真ですが、高さがわかりにくいですね。
細い道ではないので怖くはありませんが、ジャンプしろと言われたら躊躇する高さでした。
<ガイドさんの話>
「大土塁」と記載されている場所は、要は「尾根道」
お城と認識するから「土塁」と呼ぶのであって、山という目で見れば「道」に過ぎない
自然の道を活かしたものなので、土を掘って盛ったのかもわからない
お城好きはつい「お城目線」で解釈するので「当時の人の手が加わっている」と思いがちだけれど、後世に尾根道(自然地形)を整えただけかも知れません(個人的見解です)

途中、佐々木城碑の裏側を通りました。一人だったら、前に回り込んで撮影したかったです。
「全員で下るのは狭くて危険なので、行かないでください」と言われたので諦めました。

地図上で、観音正寺からの道と合流する地点から、伝布施淡路丸(の一部)が見えます。
整備されている部分はこじんまりしていますが、本来は奥まで続いているそうです。

伝目賀田丸は、木が茂っていて暗く、平坦にも見えなかったのですが、目を凝らすと奥に石垣遺構が見えます。
広く大きいと思いましたが、伝本丸方面の曲輪群に比べるとそれほどでもないそうです。
曲輪(丸)が1,000あったかはさておき、全体の規模の大きさを感じました。

道を少し戻り、観音正寺へ向かいます。
道筋には、巨石や多種多様な石仏、お供えの花、また、番号がふられた木製立札に「ありがたい教え」的一文が書かれていました。お寺まで続いていたので、結構な数です。
内容が多岐に富んでいて、お寺にお参りするだけなら全部読みながら歩きたかったな。

鳥居まで作って祀られている超巨石は「於くのいん」に鎮座ましましておりました。
「たくのいん?」と声に出して、「た、ではなくて、お、なんです。おくのいん、巨石信仰です」
と学芸員さん(後方にいた方)に教えていただきました。
ここも、個人行動ができれば、階段を駆け上がって、石の近くに行きたかったです。

ねずみ石なんていう名前がついた巨石もありました。ねずみに見えるかな?
ここにも小さなお社がありました。
他にも「石垣には使われなかった」巨石が多数残っていて、名前はついていなくても、供物が置かれていたりしました。
<ガイドさんの話>
観音寺城の石垣については解釈が分かれており、「こうです!」と言い切ることが難しい
先にお話しした時代(明治や昭和も含め、改変、積み直しの可能性)のこともあるし、(石垣にしては)小さな石で作られてるから古い作り方という意見もあれば、信長に攻められないよう急いだから、時間的余裕がなくて小さい石を多用したという意見もある
石自体は、巨石も含めたくさんあったので、大石が足りなくて小さめの石を使ったわけではなさそう



12時過ぎ、観音正寺に到着。正門前からの眺めはとても良く、新幹線や道路を挟んで向かいにある山々が綺麗に見えました。
その山々(箕作山、赤神山)へ縦走するコースもあるそうです(地元参加のトレイルランナーさん談)。
30分程度で持参したお昼を食べ、トイレを済ませ、お参りし、名城スタンプを押し、御城印を買う、となかなか忙しい。

とても人懐こい猫がいました。
細身ですが、毛並みは綺麗で撫でても嫌がらないし、お腹を出したので、多くの参拝客に可愛がられているのでしょう。猫がいる石の上に座ってお昼をいただきました。
他にも数匹いるそうです(通りがかりの地元参拝者さん談)。

12時45分、後半戦スタート。
観音正寺の立派な石垣が右手にそびえる道を進み、伝三ノ丸まで登りました。
ここから大石垣まで続くエリアが観音寺城の中心部とされており、各曲輪(丸)の整備も進んでいて、それぞれ広い平坦地が見渡せます。
後方の学芸員さん曰く「夏は結構草木が生い茂っていました。今日は天気も気温も(道や見学エリアの)状態も過去最高だと思います。昨年までは、10月に開催していたのですが、11月の方が良いかも知れませんね」。

伝平井丸も広大で、なるほど「目賀田丸はそれほど大きくない」わけです。
この虎口の階段は、観音寺城の見どころの一つで、良く写真で紹介される場所だそうです。
<ガイドさんの話>
観音寺城は破却されているかも不明、発掘調査も斜面は未着手のまま
伝平井丸は綺麗に残ってるので、観音寺城落城、開城後にそのまま使われた可能性もある
石垣も、修理されたのか等、はっきりはわからない
「金剛輪寺の石工によって修理された」という記録があるが、どこの石垣がどの程度修理されたのかもわからない
伝平井丸には庭跡があるが、庭石が見つかっていない
庭石は結構動く(門が移築されたりするように)ので、資材として持ち去られたかも知れない

伝平井丸と伝池田丸を仕切っている石垣、見づらいですが、曲輪(丸)間の境界線の役割を担っていたのでは、とのこと。
他にも「曲輪間の仕切り」と思われる石垣が存在しているそうです。

伝池田丸、立派なプレートではないものの、案内が掲示されています。

わかりづらいですが、伝池田丸の建物礎石跡、が確認できます。
観音寺城には大勢の人が住まい、訪問者も多数いたので、建物も大きく広かったとのこと。
<ガイドさんの話>
近江守護としての六角氏の実力が、大きさや広さにも表れている
政治も行い、接待もしたわけで、人が多く出入りするのであれば、建物が広くないと収容しきれない
瓦は出土していないので、茅葺き屋根だったと推定されている
元々は岩山で、寺院があったとはいえ、尾根を切り開いて作ったエリア
平坦地を作るための、石の処分も大変だったと思われる
「見せる」目的もあったが、石の処分方法の一つとして「積んだ」側面もあるのではないか
大変な石の処理を長く続ける中で、石割りや石積みの技術も高まっていったのではないか

伝池田丸から急坂を下って回り込み、大石垣の全体を視界に入れられる道を通りました。
全体が見えると「こんな山の上に、よくもまあこれだけ積んだなあ」と感心しました。
7メートルの高さがあり、防御のためというより「街道に向かって見せるために作った」と考えられています。
大石垣と旗が新幹線から見えるそうですが、「構えていても一瞬だから、気を抜かないこと」と教わりました(西宮市から来られた石垣大好き男性談)。

その道からの眺望。方角的には、観音正寺からの眺望と同じで、向かいの山々です。
田畑の真ん中に新幹線が通っていて、ガイドさんが「信長は道を作るのが好きだった」という話をしてくださったのですが、道の名称が覚えられず、メモもできなかったので、ごめんなさい。
琵琶湖と周辺の川を利用した水上交通の方が便利だった地域、時代ですが、地上の道も整備されていき、陸上交通網が発達した時代でもあったという内容でした(もっと具体的で詳細な説明でした)。

13時半、大石垣の上に到着。
旗が立ててある場所のそばに女郎岩(じょろういわ)があります。
巨石群の中で目立つ石とのことですが、巨石を見すぎたためか、特徴がよくわかりませんでした。
ここには、矢穴のある石も目立つところに置かれていました(残念ながら写真なし)。

伝木村丸にある埋門です。「門が埋まっている」からで、写真下の「黒く見える穴」から下に、人々が通行していた空間があったとのこと。
立っている場所は、高さ的にはこの門の上あたりなわけで、どのような構造の建物が存在したのでしょうか。

「算木積み以前の古い時代の積み方ですが、端が揃っていて綺麗です」とガイドさん。
参加者のお一人から「観音寺城の石垣は、たとえば穴太衆のように、どこの石工が石積みをしたかわかっているのでしょうか」との質問がありました。
「岩倉に石作り職人が多くいたとの記録があります。近隣の石工たちが積んだと思われます。岩山ですし、石垣を積むだけでなく、道を通すにも曲輪を作るにも石処理は必要です。石職人は多く存在しており、他所から連れてくる必要はなかったと考えられます」との回答でした。

写真が斜めになってしまっていますが、左上の穴が排水路。
伝三ノ丸から伝本丸へ向かう大階段に沿って右側に、一段階低くなった溝があり、その溝に流れ込むような作りになっていました。
他の場所にも排水設備、池や雨水を貯める貯水地跡などがありました。石職人、大活躍!

伝本丸に立てられた、やや古そうな木碑には「本城跡」との記載があります(拡大すると読めるかと)。
地図には「伝本丸」とありますが「お館様の住まい」があったところなので、ガイドさんは「おやかたあと」と呼んでいるそうです。

伝本丸に、観音寺城で一箇所だけ残っているとされている、食い違い虎口があります。
<ガイドさんの話>
この虎口は、①信長がくるから慌てて作った説、②信長が安土城を作る前に作った説、がある
観音寺城は、安土城の評価を高める為もあってか、不当に低めに評価されてきた気がする(個人的見解です)
積まれた時代を考えると、石垣の積み方は理にかなっている
野面積みに分類されるが、統一性はない。だからこそ、修理等もしづらい
見た目が悪いとか下手なのではとか、野面積みが古臭くて切込接が新しい(技術的に高い)といった進化論的な考えは違うのではないか
装飾や斜面保護のためではない、という視点も大切
高さがない石垣も「戦備え」という面からだけ評価、判断しなくてもよいのではないか
屋敷周りは来客に見せるための石垣だったかも知れない
六角氏の最盛期とも言われる、定頼、承禎の時代に整備しているから、お金もかけただろうし、先進的で良い素材を使っている
ガイドさんの六角氏と観音寺城愛に溢れた熱い語りが素晴らしく、胸打たれました。

伝本丸からは、桑実寺までひたすら下ります。
途中「ここからは桑実寺境内なので、入山料をいただきます」との看板がありました。入山料はツアー参加費に含まれているので、我々は気にしなくて大丈夫。
400段の階段があり、下りは楽ですが、上りは大変そうです。
数名の参加者が「以前こちらから上り、登城前に疲れ切った」と仰っていました。
桑実寺は南北朝時代の建築がそのまま残っている古刹です。
室町幕府第十二代将軍、足利義晴が三年間仮幕府を開いていました(パンフレットより)。
義晴が京から桑実寺に滞在した件は、攻城団ブログに記事があるので、ぜひご一読を。
桑実寺縁起という絵巻物は重要文化財で実物は見られませんが、須弥壇回りにパネル展示がされていました。
建物はそれほど広くはありませんが、静かでとても雰囲気の良いお寺でした。

桑実寺から下りる階段に使われている石に、矢穴があります。
下に向いて凸凹が並んでいる部分です。
<ガイドさんの話>
石の加工技術として、矢穴は鎌倉時代からあったが、広まったのは秀吉の時代
最初は拳大くらいの大きさで、だんだん小さくなっていったので、大きさで時代がわかる
観音寺城には矢穴が見られる石は少なく、いずれも穴は大きめ

足利義晴の居住地跡と聞いて、今は単なる藪だけど、思わずパチリ。
「そこ、何があったんですか?」と聞いてこられたお二人に、「義晴屋敷跡と言って通じる弟に送ろうと思って」と話したところ、そこから博物館に戻って解散するまで歴史や山城の話がはずんで、楽しかったです。
15時半頃に、博物館に戻り、事故や怪我なくツアー終了できたことを喜びつつ解散。
電車の時間まで、観音寺城ジオラマでルートの復習をしたり、映像を見たりし、上記のお二人とも少し話して「またどこぞで!」と挨拶し、16時過ぎに駅へ向かいました。
それほど疲れていなかったので、帰りも歩きました。

安土駅で、何人かがカメラを向けている方向を見ると、綺麗な夕焼けでした。
窓の汚れも写ってしまっていますが、記念に線路を一枚。
「佐々木城」石碑を正面から見たいし、六角定頼の銅像も見たいし、「また来るぞ!」との想いを込めて。
終わりに
天気や体調も含め、ほぼベストコンディションで参加できました。
メインガイドをされた学芸員さんの、ちょっと行き過すぎ? なくらい「熱い」解説も良かったです
(個人的見解です、と何度も仰っていました)。
好きに動けないとか、狭い場所では写真撮影がしづらいといった点では一人攻城の方が気楽ですが、それを補って余りある有意義なガイドツアーでした。
滋賀県文化スポーツ部、安土城考古博物館、3人の学芸員さん、参加者の皆様に感謝です。
今回、登り途中で少しバテ気味になり、息切れしました。
「無理せず自分のペースで」とのことでしたが、前の人が見えなくなること自体が不安で、必死についていってしまいました。
ハイキングには時折行っておりましたが、ほぼ低山とはいえ、山城歩きはまだまだ経験不足です。
攻城団の城たびはもちろんですが、今回のように情報が得られれば、様々な山城のガイドツアーに参加したいなと思っております。
抜けも多いのに大長編になりましたが、お読みいただいた皆様、ありがとうございました。
