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隠れた名城? 鳶ノ巣城
和歌山県みなべ町にある鳶之巣城(とびのすじょう)。
「鳶ヶ巣城」とか「鳶ヶ巣山砦」とか紛らわしい城があるけれど(しかも有名!)、鳶之巣城はかなり、マイナー。
そして、案内板もまったく無い。そんなマイナー城だからこそ、和歌山県民としてはぜひ攻城したい、でも1人は不安。
やっと機会にめぐまれて、攻城してきました。
どこから攻める?

集合場所の高城(たかぎ)公民館から、車で数分、「土井」という、いかにも「居館があったよ」的な字名の所に登り口がある。

そう、ここは「にのだん」「ほりた」「やしき」などの通称名称が残っている、龍神氏の居館伝承地。
その道向かいの墓地に登っていく道が、今もっとも城へ登りやすいらしい。
冬でも暖かい南国紀州ならでは、草やシダがいつまでも元気なので、いくつかある道がすぐにわからなくなるようだ。
墓地の上まで登り切ると獣害防止柵がある。
簡単に開けられるので、開けて進む。ただし、必ず閉めること。
途中の道は険しく、写真を撮る余裕が無かった(汗)。
横堀・帯郭・堀切・土塁

山城あるあるで、どこの何を撮ったかわかりにくいが、右が切岸で中央奥に向かっているのが横堀。

左に少し見えている切岸を造成してできた帯郭で、説明を受ける。

左下から右上に通っている堀切を上から覗く。

堀底から横方向に撮るとわかりやすい、THE堀切!
結構立派によく残っている。これを見るだけでも価値あり!

これもシダでわかりにくいけど、土塁。
人が歩いているところが高くなっているのがわかるでしょうか。
美しき切岸

鳶之巣城の推しは何と言ってもこの主郭の切岸!
特に整備されていないけど、草も生えない急斜面。
これは、到底登れない。
ここまで見てわかるように、案内板はないけれど、山城の要素がてんこもりの良いお城。
さて、こんな隠れた名城をいったい誰が?
龍神氏とは?
この鳶之巣城、龍神氏の城である。
というわけで、龍神氏についてちょっと調べてみた。
源氏の末裔!?
治承4年(1180年)宇治での戦いで討ち死にした摂津源氏の源頼政の5男・頼氏が、殿垣内に落ち延び土地の名前龍神を名乗ったのが龍神氏の始まりとされる。
時は経ち、応永6年(1399年)、大内義弘が和泉国境で反乱を起こし、応永の乱となった。
頼氏から数えて7代後の龍神頼綱は、足利幕府に味方し活躍し、その功により、矢田荘土生・小熊村などが与えられ、鳶之巣城を築いた。

この龍神頼綱の供養塔が、滝地区の十輪禅寺の道向かいの山中にひっそりと残っている。
龍神山城守頼綱の名が刻まれている(山城守は結構アバウトに自称していた説が濃厚らしい)。
龍神氏、高取城で破れる
永正5年(1513年)龍神頼綱の5代後の秀政のとき、湯川氏とともに大和国高取城を攻めて敗れ、その後鳶之巣城も攻められ落城したと伝わる。
秀政の子家綱は島之瀬に逃れ帰農、他の一族も離散し龍神氏は没落した。
その後、一帯を勢力下に置いていた玉置氏(鶴ヶ城を居城とした山地玉置氏のこと。手取城の玉置氏とは別流)の支配下に置かれた。
龍神氏のその後
今見える鳶之巣城は、遺構から考えても、どうも戦国後期のものではないかと思われる。
では、誰が改修したのか?
話は変わり、関ヶ原の功で和歌山城主となった浅野氏。
龍神氏の一部は、浅野氏の広島移封に従って、広島へ行ったと伝わる。広島藩士に名を連ね200石の知行を得ていた龍神甚太夫は、浅野氏に付き従って広島入りした龍神頼春のひ孫に当たるそうだ。
そして、徳川頼宣の紀伊入国。
頼宣は、この地に湧き出でた龍神温泉をいたく気に入り、龍神に来たときに滞在する温泉宿を作って、管理させたのが龍神氏。同時に上御殿の屋号を与えた。

有形文化財に指定されている龍神温泉上御殿(右手前から2軒目)。現在のご当主は、この地で龍神氏を名乗った頼氏から29代目だとか。
その奥に見える白い建物が下御殿。
上御殿は宿泊のみ、下御殿では、日帰り温泉もしているので攻城後にいかが?
このように、龍神氏は離散したものの、その名はあちこちに垣間見える。
戦国後期に鳶之巣城に改修を施したのは、龍神氏以外の誰かか、それとも龍神氏が鳶之巣城を守って改修したのかもしれない。
龍神氏の名残は、皆瀬(かいせ)神社にも。

八幡大明神ほか、37の神社を合祀したパワースポット。
「道の駅 龍神」から吊り橋を渡り、徒歩2〜3分。


なかなか良い雰囲気の吊り橋。この先に、皆瀬神社が静かに佇む。
鳶之巣城は、みなべ町にあり、田辺市龍神村は、そのさらに奥に当たる。
公共交通機関では訪れるのは難しいかもしれないが、美しい切岸を堪能し、日本三美人の湯で癒やされる旅もおすすめ。
