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みなさんこんにちは、黒まめです。
令和7年1月25日(土)、大和郡山歴史同好会主催の筒井城跡タイムトリップツアーに参加してきました。
攻城団のイベント告知で知り、申し込んだところ、約2.7倍という競争率(30名の定員に80名応募)をかいくぐり当選したものです。
いやぁ、ラッキーでした!
大和郡山歴史同好会のみなさん(そのうち会長はじめ3名が鎧武者に扮装!)と、講師の大和郡山市まちづくり戦略課 文化財保存活用係・小野大輔氏の案内で筒井城跡をはじめとする筒井順慶ゆかりの地をめぐってきました。
このツアーで見聞したことや、新たな学びについて報告したいと思います。
筒井順慶ってどんな人?
筒井順慶という名はよく聞く名ですが、さて、どんな人物なのかと聞かれると「?」となってしまいます。
私なんかは、大河ドラマ「麒麟がくる」で筒井順慶役をしていた駿河太郎さんの顔が真っ先に浮かんできました(笑)。
山崎の戦いで洞ヶ峠で様子を見て勝ちそうな秀吉軍に味方した(らしい)ことから「洞ヶ峠を決め込む(日和見をする)」という慣用句が生まれるきっかけとなった「ちょっとずるがしこい人」なんていう、あまりよくないイメージが浮かぶ人も多いのではないでしょうか。
筒井順慶は、天文18年(1549年)に筒井で生まれ、2歳で父と死別しています。
興福寺官符衆徒(かんぷしゅと=僧兵の棟梁)を継承し、18歳で南都成身院において得度、陽舜房順慶(ようしゅんぼうじゅんけい)を名乗りました。
28歳で信長より「大和国中一円存知」つまり、大和一国の守護を公認されました。
若くして多くの家臣、領地、領民を背負い、36歳で病没するまで、戦いに明け暮れたといわれています。
自分一人の感情で行動を決めることの危うさもよく知っていたと思われます。
こんな背景を知れば、洞ヶ峠で秀吉軍についたことも、自分の双肩にかかった多くのものを守るためには致し方なかったのでは、と想像できます。
(そもそも洞ヶ峠に着陣していなかったというのが真相らしい……)
さらに、秀吉には参戦の遅れを詰められ、その後の戦いには体調が悪かったにもかかわらず、無理をして参戦したとも伝えられています(←死期を早める原因になったのかも……と想像するとなんか切ない)。
また、順慶は茶の湯、謡曲の名手といわれ、高い教養を備えていたとも伝えられています。
そんな順慶に対して、今なお地元の人からは、あふれんばかりの愛を感じました。
筒井城周辺をめぐる
北市場の堀跡と街道
近鉄橿原線筒井駅を東に入ったところ(北市場)に残る堀跡。
この堀跡に面している道路は、人ひとりが通れるほどの狭い道ですが、昔からの道なのでそのままの幅で市道に指定されています。
市道は国道25号線(奈良街道)へつながり、25号線を少し東へ進むと、吉野街道と交差します。
筒井氏は、昔から交通の要衝であったこの地に、吉野街道を城内に取り込むように筒井城を築いたことがわかります。
虎口跡
吉野街道を北進し、狭い路地を右に入っていくとクランク状の虎口跡が残っています。
舗装はされていますが、昔のままと思われる幅と形状を今に残しています。
城址碑
クランク状の虎口跡を抜けたところにある「筒井順慶城趾」の石碑。(地図中⑦)
筒井城を攻城した方はご存知かと思いますが、この石碑前は非常に狭く、非常に写真を撮りにくい場所に立っています。
「ここは写真スポットです。立ち止まらないで撮影してください」と言われ、急いで歩きながら撮った写真はハレーションを起こしていて失敗……。以前攻城したときの写真を再利用しました。
主郭跡の高まり
城址碑から田んぼのあぜ道のような細道を北に向かうと、東側に小高くなったところが見えます。
筒井城の主郭と考えられる場所です。
周りに見える、低い所は堀跡だと考えられます(地図中③)。
国が買い上げ保存
小高い所の東側に回り込むとフェンスで囲まれた空き地があり、看板と案内板が立っています。
発掘調査の結果、大量のかわらけや石組み井戸などが検出されました。
筒井城の跡として重要な場所であるとの判断から、フェンス内は国が買い上げたそうです。
写真下は、石組み井戸が発掘された辺りを指さす、鎧武者(大和郡山歴史同好会会長)です。
式内社 菅田比賣神社
主郭の一部に鎮座する菅田比賣神社(すがたひめじんじゃ)。
延喜式に記載されている由緒ある神社ですが、天正8年(1580年)の兵火で焼失するまでは、現在の大和郡山市立筒井小学校の東側にありました。
その後、筒井城主郭の一角にあった八幡神社と合祀され、現在に至っています。
神社の境内には、このような高まりがあり、その向こうは堀跡となっています。
主郭の土塁であったかもしれません(←講師の方の受け売り)。
見れば見るほど土塁に見えてきました。
光専寺
主郭跡の北にある光専寺(こうせんじ)です(地図中②)。
ここには、市指定文化財の筒井順慶木造が安置されています。
拝観手続きをしないと本堂へは入れないので、普段は目にすることができませんが、今日は特別に拝観することができました。
本堂内は撮影禁止なので、前出のパンフレットからいただいた画像です。
外堀跡
光専寺の裏側(北側)に残る外堀跡(地図中⑥)。
今も水が残っていますが、廃城後、周辺の田畑のかんがい用水として使われていたのではないか、とのことです。
筒井順慶墓所へ
電車で移動
筒井順慶墓所には、筒井駅から近鉄橿原線で行きます。
鎧武者の3人は、指定電車の指定車両(車掌のいる最後尾)でないと乗れないらしく(←不審者扱い?)、予定より早めに筒井駅に着いた私たちは、指定電車を待つ間、30分という長いトイレ休憩になりました(笑)。
プラットホームを歩く鎧武者というシュールな風景。
後で聞くと、他の乗客の視線も痛かったそうです。
筒井駅より八木方面行で1駅の平端(ひらはた)駅で下車、墓所へ向かいます。
重要文化財・五輪塔覆堂(ごりんとうおおいどう)
この建物の中に、順慶の墓である五輪塔と供養のための石造灯籠がおさめられています。
五輪塔には
順慶陽舜房法印三十六歳 干時入滅 天正十二季甲申八月十一日
と刻銘があります。
堂の側面と背面には柱の間に貫をわたして、板塔婆を目透かしに打ち付けた(案内板より)大変珍しいものです(手間もかかりそう……)。
屋根は本瓦葺き・宝形造で、瓦は大和郡山城のものと同范(どうはん=同じ型で作られたもの)だそうです。
五輪塔覆堂の中も特別に見せていただき、写真も撮ってきましたが、SNS等へのアップはNGということでしたので、覆堂内の写真は載せていません。
この後、平端駅で解散、ツアーは終了しました。
おわりに
今月初旬に攻城したばかりの筒井城でしたが、縁あって再攻城でき、前に行けなかった見どころも見ることができて大満足!
そして、ほとんど知識のなかった筒井順慶についても深く学べ、地元の方たちの順慶愛もひしひしと感じました。
私の中の筒井順慶のイメージも大きくアップ!
城としての遺構はあまり残っていませんが、所々の地形や、道の形状などでかつてを想像するのも、結構楽しいんだなと実感。
開発はされているものの、堀跡、道、地形など昔からのものを大切にしてこられた住民の方々のおかげでもありますね。
ここまでおつきあいくださり、ありがとうございました。
今後、筒井城を攻城するときの参考になれば幸いです。