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みなさんこんにちは、黒まめです。
2025年1月19日(日)、和歌山城郭調査研究会の公開見学会「紀南の旗頭・湯川氏の本拠~亀山城跡と小松原館跡、城下町を歩く~」に参加したので、その時見たもの、感じたことをレポートしようと思います。
湯川氏とは
湯川氏(ゆかわし)は、室町幕府の奉公衆として活躍しました。
戦国時代においては紀州最大の武士として、日高地方を中心に勢力を振るっていました。
どのくらいの勢力かというと、当時の守護畠山氏でも、湯川氏の意向を伺わなければ何もできなかったほどであったそうです。
ちなみに、「湯川」と「湯河」2つの表記が存在するのですが、当時の人は漢字表記にあまりこだわらなかったようで、どちらでもよいようです。
私は、今回資料として出された(公財)和歌山県文化財センター発行の『歩いて知るきのくに歴史探訪 湯川氏の故地を訪ねる 古絵図で歩く御坊駅周辺マップ 2016年版』の表記「湯川」に従っています。
JR御坊駅よりスタート
周辺には、コインパーキングもいくつかあり、公共交通機関でも車でも便利なJR御坊駅に集合しました。
私は、450円/1日の「スペースeco御坊駅前第1駐車場」を狙いましたが、満車だったので、100円/1時間(最大料金500円)の「コダマ駅前コインパーキング」に駐車しました。精算額は400円だったので、結果オーライでした。
詰城、亀山城へ
今回の資料、亀山城の縄張図です。
以下、この縄張図の記号で進めます。
なお、出城には私有地を通らないと行けないので、現状は見学できません。堀切見たくてもガマン、ガマン……。
丸山中央集会所から登るコースしか知らなかったのですが、今回は、少し緩やかだという東の谷からのコースで亀山城へと登りました。
最終的に、丸山中央集会所から登ってくる道と合流し、その後はやっぱり結構な急登です。
避難道でもあるし、市民のハイキングコースにもなっているので、整備はされています。このような案内板も設置されています。でも、何度も言いますが、急登です(御坊市民、健脚なのかな?)。
Ⅲ郭、大手門
主郭すぐ下のⅢ郭です。
ここも、桜のシーズンは市民のお花見スポットとなるようです。平らなので、レジャーシートも敷き易そうですね。
Ⅲ郭を左に見て通り過ぎると、すぐこの大手門推定地に至ります。
縄張図ではCに当たるところです。
大きな石は鏡石でしょうか。
(後ろ姿なのは、帰りに説明を受けて写真を撮ったからです)
土塁で囲まれたⅡ郭
2段になった主郭部の下の段Ⅱ郭にやってきました。
Ⅱ郭を囲む土塁の内、上は南側の土塁上部、下は南西隅の土塁(縄張図E)を下から見たところです。
南西隅は少し広くなっていて、現在は展望案内板が設置されていますが、当時も見張り台として櫓などが建っていた可能性もあります。
そして、ここからの眺めがこちらです。
やはり、山城では見晴らしもポイントですね。
日高川と海まで一望です。
写真には写っていませんが、小松原館は、もう少し左の方、さらに左には玉置氏の手取城があります。
この写真だけ、以前攻城したとき(3月)のを使っています。
休憩所には、このような案内板があります。
この案内板は、丸山中央集会所にあるものと同じです。
御坊市指定史跡から和歌山県指定史跡になったときに立てられたものです。
休憩所の斜め後ろには、土塁の切れ目が見えています。
搦手虎口(縄張図B)です。
下写真の中央やや右よりの石のところに、門があったと考えられています。
最高所Ⅰ郭
縄張図Aのスロープを登ると、いよいよ最高所のⅠ郭です。
立派な城址碑と、近年建てられた湯川氏供養塔があります。
城址碑の後ろ、供養塔の横に見えているように、Ⅰ郭も土塁囲みとなっています。
発掘調査はされていないので、確としたことはわかりませんが、当然建物もあったことと思います。
上の写真の青い靴の足元にある石は、もしかすると建物の礎石かもしれません。
Ⅰ郭の北東には1段下がったⅣ郭があります。
土塁があるので、土塁の上からだとかなり高低差があります。
高さもあるし、滑るので下りない方がよろしいかと思います。
土塁の北隅は少し広くなっていて、Ⅳ郭に対して死角なく攻撃がしかけられるようになっています。
ここにも櫓があったと推定されます。
南東の抑えとして築かれたと思われる櫓台(縄張図F)です。
櫓と言っても簡素なものでしょうが、こうして見るといくつも築かれていた可能性があり、ここにも湯川氏の力が見えるようです。
居館・小松原館
湯川氏の生活の場であった小松原館は、東西約225m、南北約200mと想定される方形居館であったと発掘調査で確認されています。
各地の守護館が室町幕府の「花の御所」を倣ったように、湯川氏も庭園を南東部に配すなど、基本構造は「花の御所」と同様のつくりで居館を造営したようです。
規模、構造ともに、各地の守護館に匹敵する居館を営んでいたことがわかり、これは、湯川氏の財力、権勢の大きさを物語っています。
残念ながら、現在はそのほとんどが、紀央館高校と湯川中学校の敷地となり、南東に配された庭園の一部が湯川(子安)神社となって残っているのみです。
今は干上がっていますが、太鼓橋の下は庭園の池の一部と考えられています。
本殿は、小高くなっていて、池泉庭園の中島の名残です。
神社内のクスノキは、樹齢1000年といわれ、湯川氏の栄枯盛衰を見ていたかもしれません。
校舎の建設にあたり、十数次にわたる発掘調査が行われ、堀・溝・井戸・石垣・池などが検出され、多量の土器類・瓦類・金属製品・木製品などが見つかっています。
何度か改修が施されますが、最終段階の堀や池からは、焼けた瓦や建築部材、焼土が多量に出土し、館が焼失したことを物語ります。
これは、天正13年(1585年)、羽柴秀吉の紀州攻めに係るものであり、この後の遺物が出土しないことから、同時に館は廃絶したと考えられます。
城下町と菩提寺
小松原館の南には城下町が形成されていたと考えられます。
城下町は、東道・竪道(たてみち)・西道の3つの南北道を中心に構成されていました。
残念ながら、城下町の遺構も今は見ることができません。
その中の東道が熊野街道にあたり、宿場町もありましたが、湯川氏はこの宿場町をそのまま城下町とせず、館を中心に町場を再編したようです。
熊野街道(東道)沿いには、湯川氏の菩提寺、法林寺があります。
法林寺は、永禄5年(1562年)、湯川直光により、一族の菩提寺として創建されました。
直光の三男民之進が出家し、「存誉欽公(ぞんよきんこう)」という僧名で初代住職に就任しました。
初代住職 存誉上人(左側)と湯川直光公(右側)の宝篋印塔。
開基 湯川直光公遷化から450年の節目で、歴代住職のお墓を整備したそうです。
存誉上人から始まっているので、歴代住職は湯川氏の子孫になるのでしょうか。
竪道から続いてくるここは、小松原館の虎口であったと考えられている場所ですが、今は見る影もありません。
橋の下を流れる子安川は、江戸時代は船が行きかっていたそうです。
まとめ
今日めぐったところはすべて再訪ですが、新しい学びがたくさんありました。
亀山城は、遺構が残っているため、想像することもまた楽しいのですが、小松原館については、想像すらできないほどに変わってしまっています。
だから、こういった機会はとても貴重でした。
参加されていた御坊市の方が、「全然知らんかった~」と嬉しそうにおっしゃっていたのが印象に残りました。
普段あまり知ることができないこと、あまり知られていないことを新たに知るのは、本当に楽しく、ちょっと偉くなったような気分になりました。
ここまでおつきあいいただき、ありがとうございました。
〈オマケ〉 城下町があったとされる路地から、御坊のB級グルメ「せち焼き」の匂いが漂ってきたのも良い思い出になりました。
(今度一人で行ったときに食べてみよう!)