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織田・徳川vs武田、境界国衆の戦い「奥平家と菅沼家ーー奥三河の国衆はどう動いたかーー」を聞いてきた!

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思い立ったが吉日! こんにちは、toproadです。

11月23日に小牧駅前にあるラピオの5階、あさひホールにて行われた小牧市歴史講座「織田・徳川vs武田、境界国衆の戦い――奥平家と菅沼家~奥三河の国衆はどう動いたか――」を聞いてきたので、レポートを書きたいと思います。

初めての講座への参加、初めてのレポートなので、読みづらいかもしれないですが、お付き合いいただけると幸いです。

歴史講座のチラシ

講座に参加したきっかけ

僕は今まで、こういった講座に参加したことがなかったのですが、今回は小牧山城の城たび、城がたりをしようと思った時に市役所の小牧山課に行き、そこに置いてあったパンフレットを見たのがきっかけでした。

今、やっているキャンペーンの内容からすると第1回の「戦国の東美濃と苗木城」がドンピシャかもしれませんが、見事にスルーして、自分の興味のある第3回だけ申し込んでしまいました。すいません。

章立て

実際は続きで話されていましたが、自分なりに章に分けるとこんな感じかと思います。

自分の印象としては「長篠、設楽原の戦い前夜」という内容に感じました。

  1. 講師:湯浅さんのプロフィール
  2. 奥平家、菅沼家のルーツ
  3. 奥三河の転換点(1)守山崩れ
  4. 奥三河の転換点(2)桶狭間の戦い
  5. 奥三河の転換点(3)武田信玄の死
  6. 感想
  7. まとめ
会場のあさひホール

1.講師:湯浅さんのプロフィール

今回、次回の講師は新城市設楽原歴史資料館、新城市長篠城址歴史史跡保存館の館長、湯浅大司さんです。

平成4年に新城市役所に就職されて、平成8年から新城市設楽原歴史資料館館長、平成17年に作手村、鳳来町、新城市が合併した際に新城市長篠城址歴史史跡保存館の館長も兼任になったそうです。

ちなみに旧作手村には古宮城、旧鳳来町には長篠城や家康生誕にゆかりのある鳳来寺山(家康の父広忠とお大の方が鳳来寺の医王院にこもった時に霊夢を見て、その後、家康が生まれたとされる)、新城市には野田城があります。

僕の生まれは旧鳳来町で田舎や親戚の家も旧鳳来町にあります。

新城市設楽原歴史資料館

2.奥平家と菅沼家

奥平家と菅沼家が台頭する前の奥三河には設楽家が鎌倉時代より力を持っていました。

江戸時代に松平春嶽と設楽家の当主が江戸城へ行った際に「設楽家は松平家や奥平家、菅沼家より歴史があるからもっと前に座ればええやん」と言われ、固辞したという逸話があるそうです。

その設楽家に代わって力を伸ばしたのが奥平家と菅沼家です。

奥平家は上野(群馬県)が発祥の地で、本拠地は三河亀山城(古宮城の近く)です。

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菅沼家は土岐源氏の流れを自称していますが、これは明智定明という人が菅沼家の女性と結婚し、菅沼定政という人が生まれ、その後、土岐明智家が滅んだため、家康に仕えていた菅沼定政が家康の命で土岐を名乗ったということが由来のようで、本来は藤原氏ではないか? とのことです。

菅沼家は菅沼村から嶋田、田峯と移ったようです。

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長篠城は永正5年(1508年)今川家(義元の父、氏親の時代)の支配下にあった長篠菅沼家の菅沼元成の築城、野田城は野田菅沼家の菅沼定則の築城、築城年は講座の資料では永正12年(1515年)、新城市の資料では永正13年(1516年)から城があり、計画は永正5年(1508年)となっています。

イメージとしては西三河の松平、三河の中央部は奥平、東三河は菅沼、といったところでしょうか。

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旧作手村の亀山城

3.奥三河の転換点(1)守山崩れ

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今川家の支配下にあった奥三河は松平家に松平清康(家康のおじいさん)が現れたことによって、松平家に服属するようになりました。

享禄2年(1529年)、牧野氏の今橋城(吉田城)を攻め落とし、熊谷氏(熊谷直実の子孫、戦いの後に高力郷に移り高力氏となる)の宇利城も落として三河を統一しました。

その松平清康が守山城で亡くなった(守山崩れ)ことによって、奥三河は再び今川家の支配下になりました。

守山城の城跡碑

4.奥三河の転換点(2)桶狭間の戦い

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今川家の支配下になったということは、次の転換点は桶狭間の戦いになります。

みなさんご存知のように、今川義元が討たれたことによって、徳川家康が独立します。

そこで奥三河の国衆は徳川につくか、今川につくか、の判断に迫られます。

今川氏真も菅沼家の野田城を攻めて一度は攻略しますが、菅沼定盈もなかなかの名将だったようで奪還しています。

野田城の城跡碑

5.奥三河の転換点(3)武田信玄没

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3つ目の転換点は武田信玄没です。

武田信玄没の前にいわゆる「西上作戦」として武田信玄が三河に侵攻します。

それに伴って奥三河の国衆もまたまた選択に迫られました。

奥平家や菅沼家など、奥三河の国衆は織田と武田に両属の状態にあったようです。

三方原の戦いで武田信玄が徳川家康をくだして以降は武田家寄りになったと思われます。

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そして、野田城の戦いによって武田家の支配が決定的になります。

従来の説では「武田信玄が海沿いの城ではなく、野田城を攻めたのはなぜか?」という問いの答えは菅沼定盈を人質に取るためといわれてきましたが、平山先生の説では野田菅沼家の領地が三河湾近くまで広がっていて、吉田城や田原城を陸上から攻めるルートを確保するために野田城を攻めた、との説を提示しているとのことです。

その理由として挙がっているのが「為当(ためとう)」という地になります。

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田原城が武田家の海賊衆の襲撃を受けたという記録もあることから信玄は野田城から吉田城、田原城を攻めて岡崎と浜松を分断する計画だったと思われるとのことです。

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ただ、武田信玄は野田城の戦いのあとに亡くなり、徳川か、武田か、の選択になります。

そんな中、武田勝頼の求心力を下げる出来事があったようです。

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牛久保で奥平家と菅沼家が土地関係でもめたので武田勝頼に訴えた案件があったが、武田勝頼は裁定できずに、互いで解決しなさい。どのような結果になっても冷静でいなさいとの連絡をしています。

こういうことも引き金となって、武田家から徳川家に、となっていくのが長篠の戦い前までの流れとなっています。

そして徳川家から奥平家に出ている書状に奥平信昌と亀姫の結婚の話が出てきています。

奥平信昌の「信」の字は織田信長の「信」と言われてきていましたが、中津に残る書状などから実は元服の際に武田信玄が烏帽子親をしていて、その際に武田晴信の「信」の字をもらったという説があるようです。

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6.感想

なぜ武田信玄が野田城を攻めたのか? とか、山家三方衆が信玄の死後に徳川を選んだ理由は? とか、奥平信昌の「信」の字の由来は? とか、講座を聞かなければ知り得なかった情報を知ることになって、とても有意義な時間になりました。

配布資料の全ページになります。

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7.まとめ

今回は「長篠、設楽原の戦い前夜」までの奥平家、菅沼家を知ることができました。

事前申し込みをしていたのは今回の第3回のみでしたが、講座を聞いているうちに次回を聞きたくなったので、主催の方に聞いたら「事前申し込みなくてもOK」とのことだったので、第4回も聞きたいと思います。

ここまで読んでいただいてありがとうございました。今回は以上です。

   
この記事を書いた団員

toproadさん

愛知県小牧市在住の団員です。 鳳来町(今は新城市)の長篠城近くの生まれ、名古屋市育ち。 話す言葉は名古屋弁です。

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