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ミスターこまながと巡る超壮大フィールドワーク羽柴秀吉軍の三河中入に行ってきた!〜4日目〜

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こんにちは! ゆきです!

2/19(木)にミスターこまながこと内貴健太先生のフィールドワークに参加しました!
全4回のうち今回は4回目になります。

今回がラストになります!

1~3日目までの内容は、過去のブログを見てください!

  1. ミスターこまながと巡る超壮大フィールドワーク羽柴秀吉軍の三河中入に行ってきた!〜1日目〜 – 団員ブログ by 攻城団
  2. ミスターこまながと巡る超壮大フィールドワーク羽柴秀吉軍の三河中入に行ってきた!〜2日目〜 – 団員ブログ by 攻城団
  3. ミスターこまながと巡る超壮大フィールドワーク羽柴秀吉軍の三河中入に行ってきた!〜3日目〜 – 団員ブログ by 攻城団

4回目は、印場(尾張旭市)⇒白山林(尾張旭市)⇒桧ケ根(長久手市)⇒口論義(こうろぎ)(日進市)⇒岩崎(日進市)のルートになります。

今回は、印場駅に集合です。

今回は、見どころが多過ぎるので、時間内に終わるかどうか不安です……。

まずは、白山林を目指します。

歩いてる途中、印場城を横切ります。

現在は、西部浄化センターがあります。今回は道の反対側だったので、写真は撮れなかったですが、看板もあります。

小牧長久手の戦いには、関係がないそうなので先へ進みます。

矢田川を渡ります。

3日目のブログの際に、庄内川をどうやって渡ったのかについて疑問に思っていた件ですが、内貴先生から当時は、川幅が狭かったのと浅かったので歩き、深いところであれば泳ぎではないかと教えてもらいました。
また、天気を確認して川を渡れる日に渡ったのではないかとも教えてもらいました。

明治時代の地形図にも矢田川が載っていたので、同じように考えてもいいのかなと思いました。

川を渡り、先へ進みます。

途中、大きなお寺を横切ります。

小牧長久手の戦いに関係ありそうな門構えをしてますが、関係がないそうです。

白山林に着きました! 初めて来ました!

昨年12月に尾張旭市緑ヶ丘第7ちびっこ広場に石碑が建てられたそうです。

かつてちびっこであった人しかこの場所にはいません 笑

尾張旭市緑ヶ丘第7ちびっこ広場は、あくまで白山林の一部です。
本来は、もっと広いと言われています。

実際に来てみると、地形が上がっているのがわかります。

この場所で戦いが起こっている際、先陣は岩崎城の戦いをしています。

次は、木下勘解由塚に向かいます。

木下勘解由塚は、私の地元である長久手市にありますが実家から程近くにあります!

昔は、林でしたが、今は住宅街です。

歩いていると長久手市の看板が !

実家に戻っているなと感じます 笑

香流川(かなれがわ)を渡ります。明治時代の地図を確認したら川はありました。

住宅街に入ります。

平和堂で小休憩後、木下勘解由塚に着きました!

白山林の戦いで敗走した三好秀次が馬を失ってしまい、窮地に追い込まれた際に木下勘解由利匡らが自らの馬を差し出し、秀次は逃れることができたと言われる場所です。

木下周防塚もありました !

これが、木下周防塚というのは初めて知りました。

当時は、木下一族の塚が他にもあったそうです。

次は、堀久太郎秀政本陣地跡に向かいます。

明治時代の地図にもこの道が載っていたのでずっと旧道を歩いているんだなと思いました。

そして、実家も通り過ぎました 笑

実家の前の道が、小牧長久手の戦いに関係があったなんて……。

さらに進んでいきます。

まっすぐかと思いきやまさかの右へ曲がるみたいでした……。

中日文化センターの方、2日目に続き道を間違えました 笑

気を取り直して進んでいきます。

ここも旧道になります。

長湫(長久手)の村絵図に池田・森・堀隊が通ったと書いてあるそうです。

地元民の私は、ただテンションが上がります 笑

今は住宅街になっていますが地形は残っています。
旧道の横には高ヶ根、桧ヶ根と山が連なっています。

坂を登っていきます。

子どもの頃は、自転車でもりこぎ(立ちこぎで爆走)していました 笑

結構な坂だなと改めて感じました。

坂の中腹から見た景色は天気が良かったのもあり、山が綺麗に見えました。

さらに登っていきます。

もうすぐで桧ヶ根です。歩道橋で渡ります。

この道は、敗走ルートになります。今回は行きませんが、これで講座ができてしまうそうです。

堀久太郎秀政本陣地跡に着きました!

現在は、桧ヶ根公園になっています。

ここは、長久手市でも標高が高いところになります。

堀秀政が桧ヶ根にいたタイミングで三好軍の残党達が白山林から合流しています。同じ頃、家康が御旗山まで来ています。

距離感でいうと相当近いです。

堀秀政は、気づかなかったのか? と思います。

軍記物語だと白山林から徳川の追撃軍がやってきて、三好軍は交戦中で、堀はこちらを見ていたと思われます。

堀の手勢は5000ほどいましたが、近くにいたのは500~600ほど、他の手勢は三好軍の応援をしていたと言われています。

その為、堀は背後に家康がいるとは思わなかったのではないか、分が悪いので撤退したのではないかと言われています。

実際の真偽はわかりませんが現在はこの説が有力となっています。

堀秀政は、最初から桧ヶ根にいたわけではなく、口論義にいたと言われていますが、長久手には地名が残っている箇所がいくつかあり実際どこにいたのかはわからないそうです。

堀が撤退を決めたタイミングで、岩崎城は落ちてしまっているそうです……。

池田・森はこのことが起こっているとも知らず、首実検をこれから始めるそうです。

次は、景行天皇社に向かいます。

景行天皇社に着きました!

私にとっては、地元にいた際は毎年初詣に行っていた場所です。

長久手市内では一番大きな神社で、初詣の度に長久手の人口増加が感じられる場所でした 笑

景行天皇社は、長久手城主・加藤家にゆかりのある神社です。加藤家が保護し、大事にしてきました。

尾張藩主・徳川家が度々祈願や刀を奉納しており、江戸時代以降も尾張徳川家と密接に関わってきたそうです。

桧ヶ根から景行天皇社に来るまでの道ですが、内貴先生、道間違えてました 笑

お腹が空きすぎて朦朧としていたそうです 笑

次は、長久手城に向かいます。

長久手城着きました!

あれ ?
いつも見る感じではない……?

この場所は、長久手城に入る入口だそうです。

長久手城は西城と東城になっており、規模が大きいお城だと感じました。

内貴先生の著書を確認したらこの写真と同じ場所の写真がありました!

長久手城に入っていきます。

現在は住宅街ですが、虎口っぽいなと思える地形でした。

長久手城で紹介される石碑等は、東城にあるそうです。

長久手城といえば加藤忠景の城です。岩崎城の戦いで丹羽氏重とともに戦い戦死しています。

小牧長久手の戦いの際に焼かれたと言われています。

その際にここにいた女性達が観音様を土塁の中に埋めて隠し、江戸時代になって出てきたそうです。

その観音様は、今年1月に岩崎城で行われた特別展示で公開されていました。

現在は、豊善院に移されているそうです。

次は、血の池公園に向かいます。

長久手城と血の池公園は近いのですぐ着きました!

血の池公園と聞くと怖い名前だなと思います。

小牧長久手の戦いの際に徳川軍の将兵がこの池で血の付いた槍や刀を洗ったと伝わっているそうです。毎年旧暦4月9日頃になると池が血のように赤く濁るようになったとも言われてるそうです。

この伝承については、尾張藩主達が長久手古戦場を巡った際につけていた日記『遊長湫記』に記されていたそうです。

血の池公園は、現在は池が埋め立てられているので池はありません。

血の池公園の隣に交通児童があり、そこには鎧掛けの松があります。

松は、現在5代目になります。

次は、武蔵塚に向かいます。

信号機には、古戦場西となっています。もう、長久手古戦場の域に入っているんだなと感じます。

住宅街を歩いていきます。

武蔵塚に着きました!

鬼武蔵こと森長可が戦死した場所と言われています。

徳川軍にとっては、森長可は脅威だったそうです。

崩れ始めたのは、森長可が討死したことが知れ渡って池田も崩れ始めたと考えられています。

尾張藩主が建てた細長いの碑が『明和の碑』、明治に森家子孫が建てた広い碑が『明治の碑」と言います。

長久手古戦場公園に向かいます。

公園の隅に謎の碑を見つけました。

これは、何か聞き忘れてしまったのでまた確認しないといけないですね……。

長久手古戦場に着きました!

ここでお昼休憩になります。
お昼休憩は、イオンモール長久手です。

この段階でけっこうくたくたでした。距離も歩いていますが、起伏もあるので想像以上に歩いています。

休憩後は、内貴先生の「アレ」をやり 笑

勝入塚へ!

勝入塚は、池田恒興の塚です。

碑は、細長いのが『明和の碑』、広いのが『明治の碑』になります。

池田恒興というと、小牧長久手の戦いで負けて討死しているので印象が良くないですが、元々は織田家の重臣で清須会議にも参加しているので相当な武将であったと思われます。

今回、大河ドラマで池田恒興の配役が決まっているので、何かいい面が見られればと思います。

次は、庄九郎塚に向かいます。

庄九郎塚に着きました!

庄九郎塚は、池田恒興の嫡男、池田元助の碑になります。

碑は、細長いのが『明和の碑』、広いのが『明治の碑』になります。

池田元助と言われていますが、池田家に伝わる名前だと之助(ゆきすけ)だそうです。

池田家の子孫からすると元助ってなんですか? となるそうです。

崩し字で残されているのでどちらが正しいのか判別できないそうです。

元助と言った当時の研究者がとても権威のある方だったので現在そのようになっているそうですが、子孫の方が違うと言っているのであれば違う可能性はあるなと思いました。

元助が亡くなったことによって、恒興の次男・輝政が逃されて姫路城城主になります。

この石碑は、池田家家臣の勝道九兵衛秀胤討死の碑です。

次は、日進市にある口論義に向かいます。

ずっと真っすぐ歩いていきます。

口論義着きました!

小牧長久手の戦いの際、秀吉方の武将が口論したことが由来とされているようです。

口論義は、丘陵地と丘陵地の間を抜けていくような道でした。

池田軍が岩崎城、森が金萩、堀が三社の宮、三好が白山林に布陣していたと言われています。

遂に岩崎城へ向かいます。

この辺りから口数が減り始めました……。

気温、西日、疲れでやられていってます……。

五色園を通り、平池に着きます。

平池は、池田恒興が首実検をしていた場所と言われます。

岩崎城に池田恒興は行っておらず、戦っていたのは息子の元助と家臣ではないかと内貴先生は考えていました。

車通りの多い道から農道を歩きます。

私が一番きつかったのはここからの道でした。

西日と疲れがすごいのと遮るものは何もないという状況、目視だと岩崎城は見え始めているのになかなかたどり着かないという……。

川沿いをひたすら歩きます。

右の方に岩崎城の模擬天守が見えてきました。

当時は、こんな天守なかったし岩崎城を攻める予定はなかったのでどんな気持ちで歩いていたのかと思います。

右側に妙仙寺(丹羽家の菩提寺)が見えたので、岩崎城の距離感がわかり、もうすぐだと安心しました。

先へ進んでいきます。

この道は、第1回の岩崎城の城たびに参加した方であれば見たことある風景だと思います。

旧道を歩いていきます。

岩崎城模擬天守が近くに見えてきました。

岩崎城模擬天守、ビュースポット!

そして最後の坂を登り

岩崎城に着きました!!!

達成感あります!

ただ、ここから疲れた状態で丹羽軍と戦うのかと考えると気持ちが下がりました……。

岩崎城の戦いがここから始まりますが、この戦いが起こったことにより、徳川軍がより長久手に入ることができました。

2~3時間の戦いでしたが、岩崎城の戦いが行われた後疲れた状態で長久手に戻り、長久手の戦いをしたとなると徳川軍はかなり有利であったと想像できます。

ここで終了になります!

時間ですが大幅オーバーしてました 笑

4日目に関しては、相当盛り沢山で距離も長かったので承知ですね。

最後に、証明書が渡されました!

内貴先生曰く、できると思っていなかったのでできて良かったとのことです。

また、開催される可能性もあるそうなので遠方の方は大変かもしれませんが参加してみてほしいです。

まとめ

今回、4日間とも平日開催(すべて木曜日)だったので、有給を使い参加しました。

この時期は私自身の仕事が繁忙期の中でしたが、なかなかできない体験ができて本当に良かったです。

特に4日目は地元だったこともあり、さらに地元の歴史を知ることができ、何故小学生の時習ったこと覚えていないのかと後悔もしました 笑

このフィールドワークでは知り合いもいましたが、初めて会う方も多く、4日間会うと自然に話ができるようになり、他の場所で会っても挨拶できるのでコミュニケーションというところでもすごく有意義でした。

ブログを書く際に、内貴先生の著書も確認しながら書き、さらに知識が深まったなと思います。

今回で以上になります。

ブログを書いてあっぱれしてくれた方、ルームでコメントを下さった方、会った際に感想を伝えてくれた方等どれも嬉しかったです。

攻城団に登録をしていない方も私のブログを見て頂いていたので本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

本当にありがとうございました!

   
この記事を書いた団員
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