団員ブログ by 攻城団 攻城団団員による団員のためのブログ

高安城攻城記

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初めに

高安城(たかやすのき)は、奈良県生駒郡平群町と大阪府八尾市にまたがる、高安山の山頂部にあった日本の古代山城です。
白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した大和朝廷は、防衛のために665年に長門国に城(場所未確定)を、筑紫国に大野城と基肄城を、667年に対馬国に金田城、讃岐国に屋嶋城、大和国に高安城を築いたとされます。

いざ攻城

私は、高安城以外の上記古代山城(未確認の長門を除く)はすべて攻城し、それぞれ築城するのに適切な場所だと納得しましたが、高安城は海からも遠く、何故この場所に築かれたのか少し疑問を持っていました。この疑問を解決すべく11月6日攻城に出発しました。

近鉄信貴線の信貴山口駅からケーブルカーで出発します。

平日の昼のせいか、このケーブルカーの乗客は二人だけでした。
乗車中に、こうの団長が「なぜ攻城団をつくろうと思ったのか」の動画の中で「ロープウェイやケーブルカー廻りも有力な候補だった」と話していたことを思い出し、自分がこのような城めぐりをしていることはかなり偶然の産物だったことを改めて認識しました。

約7分で山上の高安山駅に着きました。天気は快晴で絶好の攻城日和となりました。

ケーブルカー駅近くにある登城口です。
登城口を示す案内板などは全くありませんでしたが、訪問ガイドに「信貴山のケーブルを利用する場合は、高安山駅を出てバス停のほうに行かず、鋭角に左の小径を進んでください」との記載があったので迷わず進むことができました。ゆるやかなギブアンドテイクです。

登城路はなだらかに登っていますが、よく整備されており、気持ちよく歩くことができました。

10分ほど歩くと高安山気象レーダー観測所(通称:高安山レーダー)に着きました。
1968年(昭和43年)に建設され、レーダー機器も新調されましたが、現在は無人化されており、大阪管区気象台から遠隔操作で半径約300kmの範囲の気象観測を行っています。
道が整備されていたのは、この観測所のためのようです。

レーダーの建物のすぐ下にりっぱな城址碑が建っていましたが、付近に遺構は見当たりませんでした。

このあと、高安城の遺構である倉庫跡に向かいます。
倉庫址は、1978年(昭和53年)に「高安城を探る会」が山中で発見したもので、発掘調査の結果、2号と3号の礎石は、8世紀前期の建物と推定されています。道は少し悪くなりましたが問題なく歩くことができました。

しばらく歩くと倉庫址に向う分岐点に至ります。
ここからの道はかなり細くなり、何カ所か草で歩きずらい箇所がありました。

突然道路にぶつかりました。一瞬道を間違えたかと思いましたが、反対側に道が続いていました。
車両通行止めの柵(写真手前)がありますが、歩行者は問題なく入ることができます。しばらく歩くと道標があり、その方向に進むと倉庫址に到着しました。

立派な城址碑と案内板がありました。

この倉庫址は礎石の位置が明確に特定されているようです。

倉庫址からは、平城京跡など奈良の街並みをはっきり見ることができました。

駅に戻る途中、行きにパスした高安山山頂に登りました。
高安城は、戦国時代に信貴山城主・松永久秀がこの地に支城を築いたとも伝わります。

道は細く、やや急で登りにくかったです。

山頂です。

高安山の三角点がある場所が、高安城の本丸跡と考えられています。
しかし、整備されておらず、藪化しており遺構は見つかりませんでした。

下山後、来た道を歩いて高安山駅に戻りました。
駅の横にある展望台から大阪平野が一望でき、かつ大阪湾をはっきりと見わたせることができました。

高安城が築城されたころは瀬戸内海がもっと食い込んでいたことを考慮すると、見張りの城として絶好の場所にあることが分り、私の疑問も氷解しました。
「百聞は一見に如かず」を実感する攻城になりました。感動のあまり、写真を撮らなかったことに気づき、慌ててケーブルカーの中から一枚撮りました。

信貴山口駅に下りて次の攻城予定地の貝塚に向いました。
ところで、攻城団には「朝鮮式山城」として6城が登録されており、私は今回ですべてを攻城することができました。バッジにしてくれないかとひそかに期待しています。

   
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