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岡山県在住の”きゃみさん”です、よろしくお願いします。
2025年は自分がまだ沖縄県を除いて行った事がない最後の地域「茨城県」&「千葉県」を訪れる事ができました。
その旅では計15カ所のお城を攻城しました。
中には西日本ではあまりお目にかかれない「巨大な土塁と堀」の「土」の平城が多く含まれていたのですが、特に今回紹介させていただく「真壁城」は規模も大きく整備もされており、ワクワクしながら攻城しました。
発掘・復元が続く城址
「真壁城」は平安末期の承安2年(1172年)に「多気(真壁)長幹」が真壁郡司職となり拠点として築城したのが始まりとされ、その後慶長7年(1602年)までの430年間、真壁氏の本拠として拡充されていきました。
最終的な縄張りは戦国末期に完成したもので東西900m、南北700m、総面積25万㎡の巨大城郭となっています。真壁氏退去後は浅野長政の隠居城などに利用されましたが、元和8年(1622年)に廃城となっています。

城址の現状は本丸が真壁体育館(城址の駐車場)、西側城域は市街地となっています。
一方、城の東側は市街地化せず田畑となっていたため遺構がよく残っており、平成6年(1994年)に国史跡に指定されたのを契機に発掘調査が継続的に行われ、平成29年(2017年)からは土塁や堀の復元工事が行われています。そのため現在の「真壁城」は写真のように復元された大きな土塁や堀が廻らされ、背の高い草木もないので平城でありながら本丸から城の外郭まで見渡す事ができます。
本丸
真壁城の攻城の出発点は現在「真壁体育館」と「駐車場」になっている本丸になります。
もともとの本丸は周囲を幅20~30mの堀に囲まれ、虎口は2カ所、南西の大手と北東の搦手があったようです。現在は西と南の堀は無くなり、大手の虎口は改変が著しいですが、半島のように堀の中に飛び出した搦手虎口は当時の雰囲気を良く残しています。



二の丸
真壁城は輪郭式の城で本来なら「Ⅰの堀」そして「二の丸」が本丸を全周しているのですが、現在は北側と東側しか残っておらず、土塁なども削られてしまっています。
本丸(駐車場)から東側の二の丸への土橋状の入口は工事用に仮設されたもので、西側の二の丸の跡を通る県道41号線から本丸へ入る坂道も昭和に入ってからの通路です。



中の城
中城は二の丸の外周を更に囲うようにつくられた曲輪群でこちらも東側が残っており、発掘調査や復元工事が進んでいるエリアになります。


中城の東側は「二の丸」との間の「Ⅱの堀」、「外曲輪」との間の「Ⅲの堀」に挟まれたエリアで、私が訪れた時は東側のエリアは発掘調査中でした。
「Ⅲの堀」は発掘調査の結果「障子堀」だったようです。ちなみに「中城東虎口からⅢの堀」の写真の正面に見える山は「筑波山」で筑波山の反対側(南の方角)には小田城があります。




中城の南東側は現存土塁や復元も進んでおり複雑な縄張りを楽しむ事ができます。
中城には発掘調査の結果、池を備えた庭園遺構が見つかり周辺には茶室や舞台だと推察できる建物群も出土しています。東側の中城の大部分はこれら庭園で占められていた事がわかり、迎賓館的なエリアであったのではないかと推測されています。



外曲輪
中曲輪の東側には城の東端である「外曲輪」があります。
土塁と「Ⅳの堀」の外は城外とされています。外曲輪はかつて方形館がいくつも並んでいた場所を埋め立てた後につくられた曲輪で、東端には鹿島神社があり、神社の周囲や東虎口周辺は土塁が現存しています。






これでも本来の城域の半分以下
以上が現在史跡として残っている「真壁城」の攻城記録なのですが、実際の城域は今回歩いた東側の2倍以上の広さで西側にも広がっていたという事にびっくりです。
現在は主に外周の土塁や堀の整備に止まっていますが、「真壁城」はまだ発掘&整備が続けられている城なので、城内の曲輪整備などこれからどんどん魅力が増して行くお城だと思います。
「真壁城」で外周の土塁&堀を見た後、同じ地域のお城である「小田城」で土塁に囲まれた本丸を補完、そして「逆井城」で建造物を補完すれば戦国の関東の土の城を頭の中で再現できるかもしれませんね。


